2004年11月13日土曜日

無煙浜まで(1)


 飛行機が降下を始めて、目の前のモニターに映る灰色の滑走路が大きくなってくる。僕はそれをじっと見つめていたが、通路を挟んで隣の席にいたサラリーマンは依然退屈そうに雑誌を読んだままで、どんなにアナウンスが繰り返し流されようがシートベルトを一向に締めようとはしなかった。来年から僕もサラリーマンの端くれになる予定で、そうなると僕も飛行機の中で不遜そうな顔をして雑誌をにらみつけるようになるのだろうか、と他人事のように考えた。伊丹でともに乗り込んだ時にはさんざんうるさく喋りながら野球カバンを行き来させていた滝川第二高校の生徒たちはいつからか黙っていて、彼らの目は静かに前を向いていたような気がする。機内の明かりは夕暮れ時の薄暗い部屋のような色をしていて、滝川第二の沈黙の向こう側に、降下をつづける飛行機とたしかに近づいてくる大きな風土とを僕は感じていた。
 灰色の滑走路はどんどん迫ってきて、押しつぶされそうに感じた途端モニターの映像に虹色のノイズが横様に走り、その次の瞬間には映像は滑走路の先の光景に切り替わっていたはずだが僕はもうその時には滝川第二の肩越しに小さな窓のむこうのこんもりした緑を見つめていた。それは木々だった。木々のくせに地平線みたいに果てしなく平らにつづいていて、夕日に照らされてじっと耐えているのがそれもまた地平線みたいで、それにしても地平線にしては木の一つ一つの集まりがこんもりとしていて海のように波打っていて、波立つというよりもやっぱり丸くこんもりとしていて、緑で、木々だった。
 モニターの映像の中で、小さく映っていた人が次第にはっきり見えるようになり、かといって近づきすぎもしないあたりでその人がピカピカ光る誘導棒をクロスさせて、少しの余韻を残して飛行機は止まった。その余韻のただなかからどうやって立ち上がっていいかを考えるともなしに考えているうちに、高校生たちはもう立ち上がって鞄を下ろし始めていて、隣のサラリーマンは座席の間で窮屈そうに半分立ったまま依然不機嫌だった。
 滝川第二の高校生たちは、降りる途中で五十代くらいの顔の丸いおじさんに捕まって、「いやあ、あれ、テレビで見てたよぉ」と、今年の甲子園の選手宣誓の話などをされていた。高校生もよく聞こえなかったが何か小さく笑いながら言葉を返してしていて、僕は通路で立ち往生しながらその言葉の交わし合いをのんびり眺めていた。機内でそうやって滞っていても、窓越しの光景などから外の空気がずいぶん涼しいことはひたひたと感じられて、大阪で日焼けした高校生たちの顔とこの八月末の北海道の光景との間にさしはさまれるわずかな時間のずれが、僕にはとてもいとおしかった。この八月を、僕らは皆、それぞれに旅してきたのだ。外から差し込む肌寒くもなつかしい光が、機内のいたる所でやわからかく砕けている。
 飛行機から降り、ずっと柱に寄りかかったままで荷物が出てくるのを待った。ベルトコンベアーの近くで押し黙って待っている人たちもいたし、荷物を誰かに任せてトイレを探しに行く人たちもいた。内側から見る空港は白く大きくて、その壁際いっぱいにまで広がって僕らを包む空気は澄んでいてかすかに肺に痛かった。振り返れば、この巨大な箱型には明らかに不釣合いな、細長いゲートが見えて、荷物を拾って肩に担ぎながら手続きを済ませてそれをくぐると、僕は北海道に来たという実感を、急激に襲ってくる冷涼な自由さとともに味わうことになった。

 僕は一昨年の末、旅先で言葉を失うという経験に冬の沖縄本島でぶち当たったことがある。あの時は、曇り空の下でゆれている棕櫚の木や、アスファルトで固められた道路の脇から零れ落ちている赤っぽい土を見ているうちに、自分がこの場所でどのような言葉を吐いていいものやら急にわからなくなった。詩の言葉とかはともかく、我々が日常使っている言葉は、あらゆるものから独立して抽象的に存在しているわけではなくて、生まれた土地のリズムやその言葉が経てきた様々な具体物の影などをどうしようもなく背負い込むことで、初めて言葉として僕らのもとにやってくることになる。それゆえ、言葉が発せられるためには当然そのリズムと影にそぐうだけの外郭というか空間というかが必要で、それがない時僕らの言葉は発せられてもどこにも場所を占めることが出来ないから、たちまち路頭に迷い出す。僕が沖縄で感じたのは、そのような感覚、つまり言葉を発しようとしても、それが拠り所とするものが沖縄の景色の中に見つからなくて、結果声が喉から外に出てこない、という感覚だった。では、かわりに沖縄のリズムや沖縄の影がその時感じ取れたかというと当然そんなわけはなく、そんなものはどうやったって見えてこなくて、僕はただ、何と呼ぶことも出来ない圧倒的な光景を前に絶句するばかりだった。
 大和民族である自分を意識しないまま、「どこに行ったらおいしいもん食べれますのん?」とか「せっかく沖縄来たのに天気悪くて残念やわあ。それに、こんなに寒いもんなんですなあ。こんな天気では、きれいな海とかも見れませんやろ?」などといけしゃあしゃあと関西弁(いや、伊賀弁だが)でまくし立てるような、そんな観光客気分には少なくとも僕はなれなかったし、かといっていきなり知った風な沖縄言葉を喋り出すのも、沖縄にいる関西人(いや、三重県が関西であるかは至極微妙な所だが)である自分を手軽にごまかしているようでやはりいやな気分がした。その沖縄旅行は母が得点を集めて当てたパックツアーだったのだが、バスガイドさんが僕ら他「お客様」に向かって仕方がないとは言え慇懃な標準語で喋るのも何だか気持ちが悪かったし、彼女がアトラクションとして教えてくれた琉球語を「変な言葉あるんやなあ」といって面白半分に使っている同乗者にも吐き気を覚えた。僕はずっと不機嫌にバスの外の光景を眺めたまま、そこを通り過ぎていく人々の顔立ちや歩み方、さらには風にしなっている木々や空で砕けていく雲のリズムなどに、バスガイドさんや運転手さんが時々漏らす現地の言葉が重なっていく瞬間を待っていた。景色と言葉が重なり合うところにある回路というか、秘訣みたいなものを見つけることが出来れば、その時僕も自分が吐くべき言葉を見つけられるだろう。そのように思っていた。

 ゲートをくぐると、「祝! 駒大苫小牧高校甲子園優勝!」とかなんとかいう垂れ幕がかかっていて、新千歳空港は通路もホールも少し薄暗くて寒かった。駒大苫小牧の優勝は、華々しかった今年の甲子園の最後を締めくくるにふさわしい一大トピックで、これまではどうしても白河の関を越えることができなかった真紅の優勝旗が、激闘の末にいきなり津軽海峡を越えたのだからその感動はただの観客の身にも計り知れないものがあったし、むろん、北海道びいきの僕としてもこの優勝はこの上なくうれしかった。けれど、現にこうやって初優勝の喜びを我がこととして喜んでいる人たちの空間を通り抜けていると、自分がやはり結局は違う土地の人間であることが切々と感じられて、僕は他人の景色の中を横切っていく旅行者にしか過ぎなくて、その足は何も切り拓かないままリニアモーターみたいに水平移動をしていくだけだから、それまでたしかだった自分の輪郭がうっすらと消えていき、「バス乗り場」という案内板にしたがってエスカレーターを降りる頃には僕は言葉もろとも肌寒さの中に拡散していた。