桃井望が死んだ時は驚いた。もう、自分の見てきた世界が一気に崩壊したようなショックを受けた。といっても、僕は別段桃井望が好きだったわけでもなく、初代Minxもユニットのあり方としてすげーなあと思ったくらいで特にこれといって興味もなかったし、その中であえて一人を挙げるなら比較的堤さやかが好きなぐらいだった。だから、彼女が死んだことによるショックは憧れの対象の消滅から来るものではなかったといえる。 そうではなくて、あのような存在は死なないと思っていたのだ。死ぬとしたら、引退してビデオ上の存在から普通の人になってから死ぬと思っていた。それなのに、彼女は人気の絶頂期に、ビデオ上の存在でもありながらそのまま死んだ。2002年10月19日の個人ノートより。「わたしが知っている幻想と、わたしが知らない一人の生身の人間が、同時にひとつの無惨な死を遂げた。その、ことの複雑さに、そして単純にそのショックに、僕はめまいを覚えた」。 ビデオに映っているのは、元はといえば間違いなく一人の人間である。しかし、それがビデオとして我々の元に届く時、その人間はもはやその生身っぽさを失っている。我々は、ブラウン管の映す幻想のただなかに没入し、拡散し、その幻想の中で自らも幻想としてひとつの幻想を愛するに過ぎない。 しかし、ブラウン管のこちら側に、幻想上の自分とは明らかに別の生身の人間がいるように、ブラウン管の向こう側にも、幻想上の存在(「桃井望」とか「堤さやか」とか)とは明らかに別の生身の人間がいる。そして、そのような生身の人間に対しては、いかなる妄想でも手を届かすことは出来ないのだ。いわば、幻想世界の臨界点、あるいは外側に生身の人間は存在している。彼女らに手を届かすことができるとすれば、まあ握手会とかがそれなのだろうけど、そういう機会を通して部分的にも生身の人間である相手を感じることは、幻想を良くも悪くも打ち砕くものである。そこでもまだ自分の幻想を相手に重ね合わそうとする人もいるだろうが、そういう人を私は一番嫌悪する。 桃井望の死は、この幻想と生身が同時に死んだからこそ僕に驚愕を与えた。決して埋めがたい懸隔をもつ二つの存在の、懸隔を挟んで抱き合った形での同時の死。映画のように時間的間隔をあけてキャラも様々にリリースされるものではなく、ほぼ間断なくしかもどれも桃井望としてリリースされる作品であったがゆえに(実際、彼女の死後も彼女の作品は続々発売されていた)、映画俳優の死などとはくらべものにならないショックがあったものだと思われる。 丹生谷貴志は、その著書『ドゥルーズ・映画・フーコー』の中で、世界は映画になってしまったという趣旨のことを述べた。つまり、ある時期まではシェイクスピアもいうように世界は演劇であった。世界は、生身の人間が仮面(ペルソナ=personalityの語源)を被り、自分の役を演じている舞台であった。この舞台で観客が対峙するのは、仮面を被って役を演じている生身の人間であり、そこには役と生身との二重性が発生している。人々は、その二重性としての世界を感受していたのである。そして彼らはそのペルソナを剥いで、真実の顔を、真実の世界を見ようとした。それが、形而上学などによる本質や真理の探究であったともいえる。 ところが、映画において我々が見るのは、たとえばダーティー・ハリーを演じるクリント・イーストウッドではない。撮影されて画面に貼り付けられた時点で、ダーティー・ハリーはダーティー・ハリーでしかなくなる。そこには演じている生身の人間自体がすでに消失している。仮面が生身の人間の顔に被られるのではなく、まさしく仮面が本来的な主人公として画面の上で動き回るのである。生身の人間は、映画が撮影される度ごとに、この仮面の中に拡散し、その拡散がそのまま画面の上に上映される。 そして、ここからが大事なのだが、たとえば舞台上で藤原竜也がマジで血を吐いてぶっ倒れたら、演劇を見ている人はその舞台が『身毒丸』だったとしても、途端に藤原竜也演じる身毒丸の幻想から覚め、今死にそうになっている藤原竜也彼自身をそこに見るだろう。観客自身としても、『身毒丸』の世界に没頭していた「観客」から、喀血にびびる生身の人間に戻るだろう。そして彼が入院でもしようものなら、その間藤原竜也演じる身毒丸は事実上この世からいなくなってしまうのだ。だって、藤原竜也が舞台に立てないのだから。 でも、それでも藤原竜也が演じた『バトルロワイヤル』の主人公の男の子は、そんなことには無頓着だ。藤原竜也が健やかなる時も病める時も、例の男の子は島に隔離されて時々は泣き言を言いながら、それでも殺し合いを元気に生き抜いていく。ここには、引き剥がすべき仮面はどこにもないのだ。生身とは関係なく、半永久的に存在し続ける映画。そしてそこには、はっと気づいて振り返るべき生身の人間はどこにもいないのである。その奥に到達すべき真理を持たないような、身体性をうしなった幻想の物語群が錯綜する世界。それが、新しい我々の世界のモデルだと丹生谷はいうのだ。 このことを考える時に、いつでも思い出すことがある。それは、映画についての映画監督ともいえる黒沢清のヒット作『CURE』の中のワンシーンだ。その映画では殺人者が人を殺した後その人の首をX字状に切り裂くのだが、この時の殺人者はいつも放心状態である。そして、ある時放心状態のままで引き寄せられるように、このX字状に切り裂いた皮膚を持って顔の皮をぺらっとめくるだ。その時、顔の皮は本当に他愛なくぺらっとめくれ、しかもその下から現れたのは、余りにも普通に血のついた肉だった。スプラッタ映画みたいに派手な演出なんかは入ってない。画面は静かで、余りにも普通に肉なのだ。その普通さが僕を戦慄させた。 ペルソナの下には何かしら大事なものがある、と我々は今でも思っている。ただ、それがはがれなくて、だから苦しいのだ、と。ところが黒沢は映画の中でペルソナを剥いでみて、その下にはもはや何もないんだ、ということをあっけなく映してしまう。だからショッキングだったのだ。 もはや、はがれるものとしてのペルソナも、その下の真実の顔もない。世界は平面なのだ。そこには舞台のように息をし汗をかき時にはフェロモンやら加齢臭やらを漂わす立体的な人間も、空間としての奥行きもない。それはまさしく、一枚の顔の皮でしかないのだ。そして我々は画面に貼りついた一枚の顔の皮として、スクリーンの外には当然出ることも出来ずに生きている。 では、そのような世界の中で、我々は観念して映画としての一生を送るしかないのだろうか。否、である。この映画的状況の中でのさまざまな努力が、実に昔から様々に行われてきた。これについては、後編で取り上げる。 黒沢清自身も、単にその不気味さをあおるだけではなく、映画の中に生身を取り戻させるために様々な試みを行っている(と僕は思う)。たとえば、「いくら考えたって(画面には)映らないんですよ」という彼のお得意の言葉。そしてそこから導き出される彼の独特の演出技法。これらは下手したら生身の人間を完全に映画の中に取り込んでしまうようなものでありながら、まさにそのような過剰なものであるがゆえに、フィクションとしての嘘くささ、はがせない仮面の息苦しさとは真逆の絶大なる肯定性を画面上に生み出している。 『ニンゲン合格』の最後で、死にゆく主人公が藤森さんに聞く「俺、存在した?」という台詞、それに藤森さんが答える「ああ、お前はたしかに存在した」という台詞は、我々が思っている以上に重大な意味を秘めているのだ。 桃井望はそれを演じていた人の死後も女優として、あるいは素人やら女子高生やらなにやらとして、ビデオ屋に並び続けている。それを借りていく人一人一人に、僕は問いかけて見たい気がする。「その人、死んでますよ?」と。「あなたが今晩そのビデオで興奮して射精するとして、それは一体何に向けられて出てきたものなんでしょうね?」と。 その時、彼らがいかに映画的世界に馴致されているかが明らかになるだろう。あるいは、彼らが、その映画的世界の外側にあり少なくとも現時点では計り知れない存在であるはずの生身の人間を、いかに捏造しているかがわかるだろう。 いうまでもなく、桃井望に限らずすべてのAV女優、すべての映画俳優は、その死んだ姿しか映画やビデオで見られないのだった。そして、下手したら僕らは自分自身についてもその生身に触れることはできず、ただそれを捏造しているだけなのかもしれない。もし、本当に生身の相手、生身の自分に触れたいと思うのなら、握手会に行って謙虚にびっくりするしかないだろう。 |