2004年8月9日月曜日

もぐもぐさんの呼びかけに応える2 ――裏ダンショウ(2)


 僕が前回投稿させていただいた「ダンショウ(2) ZONEに関する」について、もぐもぐさんから以下のようなご論考を頂きました。「あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12」
 僕は平素このようにして文章を取り上げていただく機会がそれほどないもので、まずしっかりと読んでいただけたこと、そして真摯に言葉を返していただけたことについて、大変うれしい思いをしました。もぐもぐさん、ありがとうございます。
 ただ、僕の書き込み不足もあって、僕の平素の考えとは異なるものが、あの文章には現れてしまっていたようです。そこで今回は、もぐもぐさんの書いて下さった論考を引用させてもらいながら、前回の自ら訂正と解説を加えつつ、自分の考えをより掘り下げて書いてみたいと思います。

あをの過程さんは、その中で時間について次のような論点を提出している。

「われわれは、本当に日付どおりの順番で生きているのだろうか。このこと自体、考えてみれば疑わしい。われわれは、初めからではなく最後から生きているのではないだろうか」

これは、ある程度日常的な観念のレベルに引きなおして定式化すると、私たちの「意志決定」、若しくは「生きる目的」が何処からやってくるのか、という問題である。もし時系列順に生きているだけならば、私たちは目的(end)を持っていることはありえないのではないだろうか。最初から目的(end、死)を有しているからこそ、私たちの「生」があるのではないか。
哲学のフレームでは丁度、ハイデガーが立てたような問いである。これまでにも数度触れてきたが、ハイデガーは、「死への先駆的覚悟」によって、「存在の意味」(生の目的)が明らかになる、という形で、人間のあり方を特徴付けたのだった。私たちは終末、死(end)を知ることにより、初めて、目的(end)をもった生を生きることができるようになるのではないだろうか。

 もぐもぐさんの論考は、僕が提示した考えを、ハイデガー的文脈で解釈されています。しかし、僕の考えはそのような高尚なものではなく、本当に文字通り僕らは最後から生きているのではないか、時間軸上を過去から未来へ移動していくのが普通の考え方なら、僕らはその逆の移動を実はしているのではないか、と考えていたのです。映画でいうと逆回しです。
 ただ、一時期リワインドムービーなるものが流行りましたよね。『メメント』とか、『ドニー・ダーコ』とか、主人公が過去の真相へと遡っていくやつですが、僕のイメージはこれとは微妙に違ってます。なぜなら、僕のイメージする「最後から生きていく」には誰も「これ、巻き戻ってるね」と思いながら見ている観客がいないからです。リワインドムービーで逆回しの果てに見つかる真相は、あくまで観客が受け取る真相であって、逆回しを生きている本人には未来の記憶が当然ないわけですので、過去に遡ってもそれは真相でもなんでもないわけですよね。このことは、(2)の2でもう一度出てきます。
 とにかく、僕にとっては文字通り時間軸が反転したもの、をイメージして出した「最後から生きていく」という考えだったのですが、あまりにも突飛だったことと、そのイメージを具体的に示さなかったことのせいで、解釈の転換という意味で伝わってしまったようです。これは反省しています。
 実際、僕が挙げた三つの例のうち、二つは、解釈の転換としてとらえることもできます。っていうか、多分そうです。ですから僕は、「ダンショウ(2)」中に次のような文章を書きました。

次に、レベル2。先の考え方は、(…)いわば言葉の上での言い換えに過ぎなかった。要するに、「過去にあったことを人生の最終目的って言い換えてるだけでしょ。それって結局過去のある時期を別の名前で呼んでるだけで、わたしたちが過去から未来に生きていくっていうベクトル自体は変わらないわけだよね」という批判が可能な考え方なのである。そして、そのことはこのレベルでも同じである。

 ただし、上のような批判が可能なのもレベル2までで、三つ目の例、一般的な考えからは最も離れてしまっているレベル3の例においては、上のような批判自体が成り立たないものだと思っていました。そういう想定のもとで、僕はレベル3を出したのでした。
 しかし、上のような批判が成り立たないものとしてレベル3を出すことを、僕は文章中に明記し忘れました。そのこともあってか、もぐもぐさんの文章の中では、これもまた解釈の転換というか、解釈学的問題というか、つまり時間軸はそのままで発想を転換しているだけ、という例に留まってしまっています。
過去の出来事は私の生の場合と違って、成長したりその状態が変化したりすることは本来ないはずなのだが、「解釈」というレベルで言えば、そのようなことはなく、一定の意味内容を持つ出来事として最終的に「確定」するまで、様々な変遷を辿る。
「未来から、遡及的に生きていって、その出来事がまさに一つの出来事であった時期に帰ろうとしていっている」というのは、もう少し普通の表現をすれば、複数ある解釈の「可能性」(未来)が、確定されて一つの「事実」(過去)になる、ということである。何らかの事件が起こったとき、情報が少なく、噂話が錯綜するとき、その事件の真相は様々なものである「可能性」を持っている。だが、次第に事態は明らかになっていき、外堀は埋められて、真相はこれこれのものであった、と「確定」される。確定された解釈は、その後は「解釈」ではなく、「事実」として扱われるようになる。これをアフォリズム的に表現すれば、「解釈とは、未来から過去へ遡及する運動なのだ」(解釈により、可能性は絞り込まれて一つの事実として確定される)と言うことができるだろう。

 ここで我ながらしまった、と思ったのが、僕が書いていることがそもそも気が狂っているようなことなので、「普通の表現」にはなかなかできない、ということを自分の文章に書いておかなかったことです。ただ、もぐもぐさんは気を使って引用されなかったみたいですが、僕はレベル3の冒頭で、「さあ、レベル3。ここに来ると、もう気が狂っているとしか思われないだろうが、書く。」ということを述べてます。僕もいくら勉強していないとはいえ、解釈は常に現在から行われ、解釈が過去を作り出す、といった風な(「といった風な」というあたりがいかにも阿呆ですが)議論は知っています。最近は物語論も大流行ですし。その上で「気が狂っている」と使うくらいだから、本当に狂ってるんです。なかなか哲学の索引がつけにくいようになっている。それが伝わらなかったのが残念だな、と。

 さて、もぐもぐさんは僕の議論について、それは最終的にヘーゲル的な目的論に通じるもので、そこには遊びがない、という風なことをおっしゃっています。レベル2までのところでそれが言われるなら致し方ないかな、と思っていたのですが、レベル3まで通じてそう解釈されたのは、我ながら不徳のいたすところでした。なぜならば、僕があの文章で目指していたものは、ドイツ観念論的な形而上学、その根幹に見えるキリスト教的世界観、およびその裏面であるに過ぎないニヒリズム的な思考、これらをなで斬りにして無化してしまうことだったのです。
 しかし、レベル3について述べるのは次回においておいて(長くなりますから)、レベル1、2について反論という形で少し説明を加えたいと思います。
 まず、レベル1ですが。まず、もぐもぐさんは以下のように解釈してくださってます。

本来の趣旨をかなり歪めてしまうかもしれないが、敢えて理解のためにやや乱暴に単純化してしまうと、「私」は「大人」になるのと引き換えに、「幼少」の頃の記憶を「喪失」するわけである。つまり、「幼少」としての私が「死」ぬことによって、「大人」としての私は「誕生」する。けれども、「喪失」された何かは、絶えず「ある種のノスタルジー」の形で回帰してくる。私はそれを取り戻そうとする。そしてそれを取り戻すことによって、「大人」としての私は「死ぬ」(これは順番としては逆かもしれない。「死ぬ」ことによって「取り戻す」のかもしれない。本文からは何れとも確定できない)。「死ぬ」と言っても但しそれは、恐らく幼少としての私への「生まれ変わり」であり、ある種の「生」の回復でもある。

 ここでもぐもぐさんは「死」をメタファーとして読み解いてられますが(そしてそれはレヴィナスとかバタイユとかの見方からするとまるで当然なのですが)、僕の挙げたのはほんまもんの「死」でした。とはいえ、分かりにくいと思います。
 今見直していて自分の文章のミスに気づきました。以下のように訂正すれば伝わるかな、と思います。

「その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものでありながら、人生の究極の目的地となるものである。そしておそらく、人はそれを手に入れながら、死んでいく。つまり、われわれは自らの死、自らの最後に来るはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。」

「その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものである。それでいてそれは、人生の究極の目的地となるものである。なぜか。おそらくそれは、生きている人間を駆り立てる空洞でありながら結局生きているうちには手に入らない、そのような類の記憶であるからだ。それが手に入るのは死の瞬間のみなのだ。つまり、われわれは自らの死のその瞬間に来るはずのもの、自らの最後にくるはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。」

 こうなった場合、結局「究極の目的地」は目指すことのできない場所になります。人生を数直線化してその両端にまさに点として誕生と死の瞬間をおいてみる場合、点がそもそも定義としてそうであるように、この誕生と死は人生の中にありながら、人生の中で幅をもたないものとなるからです。そのような点、そのようなまさに一瞬に現れるものは、ある意味ですでに人生の外にあるといってもいいと思います。人生を駆り立てる機会にはなっても、人生に豊かさを支払う存在にはならないからです(つまり、努力に対する報酬としてこの「回復」はあてに出来ないのです。だって、取り戻す瞬間は死の瞬間とぴったり重なり合ってますし)。しかも、それはもはやすでに決まってしまっている。そして最後にはきっとやってくる。となれば、その間の人生の長い幅をどう生きるか、に問題は集中してくるでしょう。
 そして、この誕生と死の二つの点の間で、いくらでも人や社会は変化すると思います。生と死の二つの点だけは変わらのないですが、それは人生の中できわめて重要でありながら、まさにその一瞬に幅がなくかつ決定されていることで、もはや人生の外といってもよい。こう考えると(というか、もとよりその考えですが)、もぐもぐさんの「この解釈においては、実は私の生は、殆ど最初から定まってしまっていると言ってよい。「取り戻す」べき「記憶」は既に「与えられて」しまっており、私はその内容を「変更する」術を持たない。私にできることは、それを「忠実に」「取り戻そう」とすることだけである。」という批判も、克服できるように思います。

 あと、レベル2について。これだけは、もぐもぐさんが丁寧に読んでくださらなかったな、と思っているところですが。僕は、「ダンショウ(2)」のほかの文章との兼ね合いもあり、ここで「誕生の直前、わたしたちにとってはすべてのことが未来である。」と書きました。しかしもぐもぐさんは、「生まれたての赤ん坊は全ての「可能性」を持っている」、「若い頃(特に青年期)には、自分には全ての可能性が開けており、何にでもなり得るように感じられる訳だが、」としてしまっていて、このことで僕の議論の骨格が揺らぎ始めてしまいます。
 僕の議論の基調は、上のレベル1にも出ていたように、誕生と死の瞬間を特別な瞬間、人生にとって極めて意味のある瞬間としながら、同時にそれを人生の外に置くことです。もちろん、どこにどう生まれるかは人生にとって非常に重要であり、「終わりよければ」ではないにしろどう死ぬか、が人生を意義付ける度合いはとてつもなく大きいでしょう。しかし、それは誕生と死を点ではなくある程度の幅を持つ線と考えた場合のことであり、点としての誕生と死は、やはり当事者の人生に対してある意味で無責任な一つの出来事でしかありません(「出来事」については(2)の2で)。
 誕生の直前は、すべての可能性がまさに実現できるかもしれない可能性として光り輝きます。それに対して、誕生の直後は、すでに可能性はかなりその領土を減らし(たとえば、僕がこの時代にこの国で、三重県の片田舎に生まれた、というだけで、すでに僕の人生はある種の方向性を持ち始めます)、そこからの人生に対してある種の責任を持って生きていかなければなりません。そのあい間で、誕生の瞬間はまさにすべての可能性が一番光を放つと同時に失われる、いわば完成と終末が背中合わせになっている瞬間といえるかもしれません。
 そして、死の直前、人は他のいかなる可能性もない一人の人間となります。すべての可能性を失う瞬間、人はたとえ世界からなんと言われようともたとえ人生がどんなにボロカスでも、その人の中ではもうどう変わることもできないという、動かぬ一個の事実となるのでしょう(あとの人が彼をどう解釈するかは、また別の話です)。そしてその事実化が完成しかつ失われる瞬間こそが、死の瞬間なのです。
 さて。少し先回りをしてしまいましたが。戻ります。もぐもぐさんのように、「生まれた後も人は全ての可能性を持っている瞬間がある」、と考えた場合、「可能性」の危険性はかなり薄まります。僕の考えだと、たとえば僕は源平合戦の時代にオーストラリアでオポッサムとしてうまれてもよかったわけです。ある日起きたら虫になってしまっていてもいいし、9・11でビルに突っ込む飛行機の中に合成樹脂としてとして乗って(?)しまっていてもよかったわけです。われわれに開けている可能性は、魅力的であるとともにそれほど危険なものなのです。
 そして、その可能性が0になる、ということ。それは決して、自分がどういう人間になるか、ではありません(「人間」という概念自体、すでに他の存在その差異化によって生じている。そのため、他の何かになる可能性があったのにならずに「人間」になった存在、という可能的な響きがそこには生じる)。自分が自分にとっても手出しの出来ない、ゆるぎない一つの点(点については上参照)になること。一つの出来事になること。そのことを、僕は書いたのでした。
 こう考えた場合、これも目的論からはずれてしまうのではないでしょうか。「自分のすべきことが何なのか、経験し、否定を重ねるなかで、最後にようやく見出していく。所謂ビルドゥングスロマンである。やや理念化・パターン化されやすい嫌いはあるが、人生の真理の一面を鋭く突いたものであると思われる。」ともぐもぐさんは仰られていますが、僕の考えにおいて人生の主人公が最後に見出すものは、あまりにも自分であるがゆえにもはや自分ではない点にしか過ぎません。それはあらゆる教養小説的・目的論的人生観を無に返す、石壁のような結果の顔をしているのです。

(つづく)