時間は過去から未来へ流れている、という考えにわたしは常々違和感を抱いている。時間を過去から未来への川の流れとして考えてみよう。世界のあらゆるものは時間に晒される、とするならば、世界のあらゆるものは川の流れにそって自らも流れていくことになる。それでは、この川が流れていく空間、川を受け入れる今だ見たこともない陸地は、一体何なのだろうか。陸地もなく、川は流れているということはできない。 それに対して、わたしが高校生の時から持っている時間感覚は、雪、あるいは雨の比喩でもって表せる。いまだ来たらざるものを曇天に見立て、既に過ぎ去ったものを足元の地面に見立て、そこに立っているわたし、そしてはるか上空から降ってくる雪。雪は、もちろんわたしだけに降るのではない。地面の上に立つ者すべてに降り注ぐ。そして、雪に降られている世界の広大さ、それを包み込む雪の途方もない広がりを、立っている一人のわたしがもてあまし気味に、圧倒されながら感受する。時間軸のように平面に表すことは出来ない。なぜならそこにあるのは、直線的に配置可能な未来や過去ではなく、わたしの皮膚が雪とふれあい続ける絶え間ない現在だけだからだ。この現在が立つ場所として、私に触れた雪がしみこんだ大地、すなわち過去はあり、この現在がぶつかる未知にして、いずれわたしに雪という欠片でもって触れてくる曇天として、未来がある。 さて、この場合、地面というものが、わたしの肌に触れて溶けて伝った雪だけでなく、世界に同時に降ったあらゆる雪を吸い込み、それを循環させているものであることに気づく。さらに、わたしが地面のある地点に立つ前に、そこには誰かが立っていたのであり、その人の肌を伝った雪やその人の体重などにより、その地面は既にわたしが立つ前に形作られている、ということも知ることができる。これらのように考えることは、われわれの同一性と自由、差異と反復、生前や死後、風土や遺伝子、歴史や同時代に対する責任の問題、そしてもちろん詩についての様々な問題を考える上で色々な示唆があると思う。 * * * われわれは、本当に日付どおりの順番で生きているのだろうか。このこと自体、考えてみれば疑わしい。われわれは、初めからではなく最後から生きているのではないだろうか。ここで、一般的な考えから遠ざかる順に三つのレベルを立てて考えてみよう。 まず、レベル1。わたしたちは、胎児の時期、あるいは幼少の時期をほとんど覚えていない。その空隙は、われわれにとって非常な不安定感とそれゆえの求心的な作用(ある種のノスタルジー)を生じさせる。埋めようのない空白を埋めるものを探し、帰られるはずのない場所に帰ることを願い(普段は意識していないにせよ)、われわれは生きていく。その空白を埋めるものは結局、時間軸を想定すれば過去の一時期にマッピングされるものでありながら、人生の究極の目的地となるものである。そしておそらく、人はそれを手に入れながら、死んでいく。つまり、われわれは自らの死、自らの最後に来るはずのものを過去に持ち、まさにその地点から生をスタートさせているのである。 次に、レベル2。先の考え方は、人生の最終目的と同じものが過去に現れてくるところをとらまえて、過去のその「同じもの」に「人生の最終目的」を代入しただけの、いわば言葉の上での言い換えに過ぎなかった。要するに、「過去にあったことを人生の最終目的って言い換えてるだけでしょ。それって結局過去のある時期を別の名前で呼んでるだけで、わたしたちが過去から未来に生きていくっていうベクトル自体は変わらないわけだよね」という批判が可能な考え方なのである。そして、そのことはこのレベルでも同じである。 レベル2。誕生の直前、わたしたちにとってはすべてのことが未来である。すなわち、すべてのことが自分に起こりうる可能性をもつのである。しかし、生まれてしまえばそんなことはなくなり、可能性は両腕の間から次第に零れ落ちていく。大人にもなると、かろうじて想像力の迂回路を通ることで、「あの出来事は自分に起こったことかもしれない」という可能性を身に引き受けることができるだけである。 すなわち、誕生の直前の時点で、わたしたちはすべてを持っている。つまり生きることは、その持ち物をなくしていって、最終的にこれ以外ない、という一人の自分になることだとも言えるのである。もちろん、そのむこうに、一人の自分をさらに無に帰す死があるわけだが。普通の考え方において、手に入れていくことが人生だと言えるならば、われわれはすべて手に入れてしまっている、というまさに最後の段階から、スタートしているとも言えるのである。 さあ、レベル3。ここに来ると、もう気が狂っているとしか思われないだろうが、書く。われわれの生きていく中で出会う出来事というのは、事後にさまざまな解釈を呼び起こす。しかし、それが起こった瞬間は、まさにそれは一つの出来事であって、他ではない。では、もしかしたらわたしたちは、事後の解釈によって悶々としている未来から、遡及的に生きていって、その出来事がまさに一つの出来事であった時期に帰ろうとしていっているのではないだろうか。そしていうまでもなく、最大の出来事は誕生である。われわれは、自らの死から出発して、さまざまな解釈を出来事に返しつつ、自らの起点となるたったひとつの出来事である誕生に向かって生きているのではないだろうか。誕生から死へと老いていくように思うのは、単にわれわれが順番を逆向きに把握しているだけなのかもしれない。 これらの考えは実際おかしなものかもしれない。しかし、時間と生きることの問題は非常に取り組むことが困難な問題である。なぜならそこには生と死をどう捉えるか、という問題が絡んでくるからだ。これがさらに、詩とも密接に絡んでくるのは、途中でさりげなく持ち出した「想像力」のことなどを考えてみても明らかだろう。われわれはどこからどこへ生きているのか。何を抱き何に憧れているか。瑣末なようだが、実はこれは非常に根本的な問題だと思うのだ。 * * * 簡単に納得しないこと。自分の信念に関わる場合は、特に。その一方で、常に自分からの意見を発信していくこと。そうしなければ、結局力ずくで押し流されるか、あるいは逆に自分がすべてを堰き止めてしまうことになりかねない。それは、苦痛しか生まない。 * * * 臓器の襞、その内に宿る闇は、生の襞に宿る底なしの闇と通じている。人を根本的に打つ声は、そこから誰のものともつかないものとして湧き上がる。しかし、忘れてはならない。それが世界に発せられる時、そこには必ず声を発する者の身体の震えも共に宿っている、ということを。 * * * 「~でもない、~でもない、何か」、としての存在のあり方。ただ自分である、という存在のあり方。世界と向き合う一人の身体、その名前。それらが背負う重みと、貴さ。 * * * 演じられたわたし、演じるわたし、その外側の何気ないわたし。この区別に対する感覚と、この壁を貫くパッションとをともに持ち得ないと、パフォーマンスを成り立たせることは困難ともいえる。もちろん、壁の厚さはその時々によって変わるだろうし、それを変えてみせることも重要な芸の一つだろうが。 * * * クレバーであること。それは、バカであることとある点で近い。さまざまな出来事に対して、従来の定式に当てはめて簡単に答えを導き出してしまうのではなく、そこに潜む問題の困難さを敏感に感じ取り、それに対して自らの存在を賭けて立ち向かうこと。自分に本気に生きること。それが結局、如才ない処世術などを超えた、生きること自体の叡智に人を導くのだろう。 * * * 光があれば影がある。昼があれば夜があり、陸地があれば海がある。ここにわたしがいる、ということ。その時、ここにいることも出来た他の人がここにいない、ということも同時に起こっていると言える。 生を光が当てられている側面として考えるならば、光が当てられていない所で眠っているわたしもどこかにいるはずである。光が当てられる瞬間、それまでは文字通り円満であった球は、照らされる側面と照らされない側面に分かれてしまう。われわれは、わたしが生の舞台に上がった瞬間に、分かたれたのだ。しかし、死の後に再び分かちがたい二人として戻るだろう。 物語の主人公と作者との関係。日常を生きるわれわれと、読書の時間を生きるわれわれの関係。二重身の問題は、様々なものにあてはめることが出来る。絶えずどちらかが舞台に上がり続け、その背後でもう一方が影として光を支え続ける(いや、実際、この両者はずっと役割が固定されているのではなく、交代可能なのだろうが)関係。さて、では、わたしと言う物語を生きているもの(すなわち、この「わたし」)の背後には、誰がいるのだろうか。 「わたし」は「彼」がいるからここに生まれて、ここに生きている。 * * * わたしの死後をわたしは想像できない。なぜならば、そこには見るものとしてのわたしがいないからだ。わたしが触れてきた世界には、必ず見るものとしてのわたしがいた。それがいなくなった時、もしかしたら世界はもはや姿を変えてしまうかもしれない。それどころか、なくなってしまうことも考えられる。世界は下手したら、自分ひとりの幻想かもしれないのだ。自分が死んだらそこでおしまいになる、わたしが主人公の一つの映画なのかもしれない。そして、人間も地球も草木も青空も、ただ「わたし」という映画を作るためのCGのごとき創造物かもしれない。作者は外にいるのかもしれない。このことを考えると、わたしはいつも耳鳴りがするような暗闇に直面して、暗澹たる気分になる。 このような場合、わたしのことを誰かが覚えていてくれる、と考えることは一つの救いになる。その人の存在のおかげで、わたしの見ていた世界がある程度ではあれ存続できるからだ。しかし、記憶はいずれ消えるだろう。その時、やはりわたしの存在は消えてしまうのだろうか。 それは違う、と今は考えている。もし「わたし」という映画の外にも何かの世界があるならば、その世界がどんなにわたしの世界と異なっていて、そこでわたしがどれほど笑いものにされていたのであっても、ただわたしが生きたという事実だけは、そこに響き続けるだろう。だれが覚えていなくとも。どんな形であれ世界が存在する限り、わたしが存在したということだけは、ただその事実だけは、消されることがない。宇宙の中で、やまない波のようにめぐりつづける。 * * * この不確かな世界で、誰かと関わり合うという奇跡。ましてやその人が、ちょうど自分の背後にいる「彼」のように、わたしを支えてくれるということの心強さ。「わたしたち」の間に生まれる「関係」は、その時、一体どのような言葉で現されるだろう。その、体温の交わし合いにも似た感触は、自分の単なる妄想でない場合、一体誰のものなのだろう。相手のものだろうか、「わたし」のものだろうか。そしてそれは、どこに流れていき、どこで保存されるのだろう。 「関係」がたどり着くのは、たぶん二人が共にある場所だと思う。二人しか知らない(もしかしたら二人すら知らないけれど)二人だけのための秘密基地のようなもの。そこから出発して、お互いに分かれていくけれど、結局最後はそこにたどり着く、基地(baseは、基地であり基礎であり基点でもありうる。われわれはそこから戦地に旅立って、戦いの後で疲れを癒しにそこに戻ってくる。そしてまた旅立っていく。何度でも)。時には遠く離れながらしかしともに歩み続ける二人の呼び合う声は、すべて、どちらかの頬を流れそしてもう一方がそれを忘れないと誓ったいつかの涙のように、二人の関係の真ん中を流れ落ちて、基地に流れ着くのだ。そして、そこで待っているのだろう。二人がそこにたどり着くのを。二人が基地に帰ってくるのを。 * * * 一般的には話者からの一方的な解釈・表現であることが多い言語芸術において、他者との双方向的というか、どちらのものやら分からないというような、上に書いた「関係」それ自体が作品の中に結実している奇跡を、われわれは時に目撃する。 * * * |