2004年8月9日月曜日

『あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12』に対するコメント


『あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12』

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=17191

 読み込んでいただいたことに感謝の意をこめて。しかし、絶対これだけは取り違えて欲しくなかったこととして、一つだけ書かせていただくと。わたしがあえ て(比喩ではなく、文字通り)時間軸を逆転させたのは、まさに「解釈」を無に返す「出来事」の存在を出してきたかったからです。だから、われわれの人生と いうのは、死の時に至ってその意味が全て明らかになるものではない。逆に全てが明らかになると思われるほど、あらゆる解釈を経てきた死の時から人生はス タートして、逆に解釈不可能なものとしての出来事それ自体に向かっていくのではないか、ということです。吉本隆明の「存在倫理」に考えの基礎を置いていま す。そしてこの出来事とは、バルト辺りが仮想した純粋なテクスト、読者(下手したら作者さえも!)のいないテクストに似た概念です。
 だから、もぐもぐさんの文章の事件と解釈の例は、僕の意図した所と順番が全く逆でした。事件が起こったまさにその瞬間、事件は一つの出来事です。その一 瞬(0地点)だけはわれわれの解釈を拒み、自足しています。しかし、当然様々な人から様々な解釈が出てくるから、事態は紛糾する。で、コナンが見つける真 相とかも、結局はそんな解釈のうちでその時点で最も妥当性をもち共有されやすいものにしか過ぎず、出来事それ自体では決してない。
 ここからは余談ですが、わたしは目的論を嫌っています。目的的、教養小説的人生観は大ッ嫌い(笑)。わたしの死生観が目的論的だとしても、それは結果と しての目的論を語っているに過ぎません。なぜ、それを語るのか。目的地を一つの結果に返してしまうこと(つまり、たどり着いたところがその人の目的地で あったんだろう、と悟ること)で、過程を目的から解き放ち、そこに遊びを作り出すためです(「終わりなんて気にしなくても 走れるだけ走れば分かる」  ZONE「Come to Myself」より(作詞・作曲:町田紀彦))。

 追記:結局、カントよろしく物自体と現象界を分けているだけじゃねえの?と思われるかもしれませんが、そうです。ただ、カントがなぜ物自体を作り出して それを括弧の外に置いたのか、そのことの意味が坂部恵あたりによって再考されています。僕は、それの延長線上で思考しています。本質ではなく、フーコーに おける「外」のような物自体。のような出来事(特に誕生)。そこに生まれてくるのは、自由さと、キリスト教的思考からの生の奪回と、そして他者に対する倫 理だと思っています。