2005年7月20日水曜日

「Ishkar」 scene 2


 ……いや、違う。違うんだ。
 水橋は突然、自分の記憶に首を振った。彼はバスの座席に腰を落ち着けていた。バスの中はさっきからずっと、小さくカタカタ揺れていて、窓から射し込む八月の夕暮れは、水のように透明だった。
 たしかに彼は、今年の二月、石狩市に行った。そこで石狩灯台を目指して道に行き迷い、結局、自分の足跡を辿って戻って来ざるをえなくなった。郵便局に行ったのは、戻って来てからのことだ。そこで彼はトイレを借りて、お金を降ろした。親切そうな目をした局長は、ほほ笑みながら「旅行で来られたんですか?」と訊いた。
 「はい」水橋は正直に答えた。「今ちょうど、北海道を旅してまして」
 「そうですか。失礼ですが、どちらから?」
 「京都からです」
 「へえ、京都ですか」局長は少し驚いたようだった。紳士的だった目が、丸く広がって途端に子どもじみた。「それはまた、遠いですね」
 水橋は笑いながら説明する。
 「この時期、大学が暇なんですよ。それで、ちょっと思い切って足を伸ばそうか、と」
 「なるほど。学生さんなんですね。学生時代の一人旅、いいですねえ」
 その後も会話は続いたように思うが、大体のところ、これがことのあらましだった。二月のあの吹雪の日について、もし人に尋ねられたとしたら水橋もこのように説明しただろう。しかし、このように全体的で順序だった説明は、どこかしら彼の実感から遠いところがあった。まるで、他人の見た映像について語っているようなのだ。そして、彼の骨身に沁み込んでいる出来事としてそれを語ろうとすると、たちまち記憶は混沌とした歪みを生じ、彼はいまだに雪の石狩を歩きつづけているのだった。
 歩いていた。雪はどこまで行っても止むことはなくて、灯台を失ってもなお進む他はない情景ばかりが、無限につづいていく。歩いていた。どうやって郵便局のある所まで戻ったのか、その部分の記憶は欠落していた。もしかしたら、そこで何か大事なことが起こったのかもしれない。そう思うと、不意に、今ここにいること自体が、自分の知らない真っ暗な雲の中で起きた出来事の結果であるような気がして、水橋はいわれのない不安に襲われた。歩いていた。郵便局の中では自分がしきりに嘆いている。「住所と名前がわからないと、どうしようもないですね」水橋はその過去が、後から捏造されたものであることを知っている。あの封筒が着いたことが、このような言葉を過去の彼に言わせているのだ。しかし、それを知っても、どうなるものではない。歩いていた。歩いている。歩いている。歩いている。
 水橋は、手元に取り出した封筒を眺めていた。まだ知らぬ封筒の中身は、バスの振動に合わせてカタカタと小さな音を立てていた。「清田新栄」という停留所の名がアナウンスされた。しかし、誰もボタンを押さなかった。しずかに前を向いたままの人々は、スピードをゆるめることもなく、「清田新栄」を通り過ぎていく。肌寒いと言うよりも、むしろ温度がないほどのわびしい夕陽に照らされて、バスは八月末の札幌の市街地へと、今、入って行った。