{引用=承前(「古島さん「補足その4」への個人的なお返事(1)」http://awono-katei.blogspot.com/2005/07/blog-post_14.html なお、古島さん「補足その4」はhttp://po-m.com/forum/showdoc.php?did=42702です)} >いつの時代であれ、どのような人であれ、「私」を通して時代を語るのであり、 これは、私もそうだよなあ、と思うところでした。 この部分で何が面白いって、「私」ってものはよく、個人的なものだと思われがちですよね。で、「時代」っていうものは、公的なもの、と言って変なら、個人を超越した大きなものである、と思われがち。 でも、「時代」はそれだけで存在しているわけではなく、「私」を通して現れる。それも、個々の「私」を通して極めて個人的な次元で現れる。それをある手法によって世の風潮だの時代の特色だのいって抽出して見るから、まるで時代がまずそれだけで存在していてその中にいる人々がそれに影響を受けている、とかいう図式が頭に浮かんでしまうのですが、実際は、時代は時代だけでは存在しないも同じなのではないでしょうか。 逆に「私」の側から言うと、我々は自分である「私」のことを当然のものだと思っていますが、それは確実に時代によって影響を受けているのです。たとえば、ロマンチックラブと呼ばれる我々の「恋愛」も、もともとは騎士と貴婦人の恋を祖先として西欧で発明され、日本に輸入されてきたものですし、我々が普段感情だの内面だの言っているものも、たとえば「人間の内面」などとして名づけ呼ばれる対象となったのは、日本では『当世書生気質』等の近代小説の誕生(移入? キメラ化?)の後のことだということです。 だからこそ、「私」を通して「時代」を語ることも出来るのでしょう。というか、「私」よりも大きな「時代」を語るためには、「私」の限界を排していく方法のほかに、徹底的に「私」を掘り下げていって、時代の地層に掘り当たる、というのも立派な方法なのではないか、と思うのです。また、「私」を書くにせよ、中途半端なことをするとそれが単に「時代」に押し着せられた「私」を描くだけで留まる、すなわち「私を表現」することもできず「時代」の真相も暴けず、たんに「時代」によって前もって与えられていた答えをお利口に繰り返すだけになってしまうのです。それよりか、「私を表現」なんて考えずにただ自分の書きたいものをじっと見つめていくことで、その見つめるまなざし、見つめざるを得ないまなざしの力として、「私」が作品の中に強烈に立ち現れてくることもあるのです。 >「私」という人間によって言葉は意味を与えられ、その意味の真価を問われるのは、「私」自身の生き方であり、「私」という人間が、如何にこの時代の深部を理解し、それを表現し得たかという事実にこそある。ニュアンスもイメージも、「私」によって意味を与えられてこそ、「詩」となる。 作者としての「私」を知らなくても、詩は読めると私は思います。作者のことを知らなくても感動できる詩があることは、実際ここにいるならば何度でも思い知らされます。 さらに言えば、読者が読み取る「私」なんて、最終的に、その作品を通して浮かび上がってくるものでしかなく、それは現実の作者とは異なっている。だからこそ、作者の人生とかは究極的には作品の価値や意味の担保になるものではないと思うのです。作者の人生として自分が知っているものを、読者は作品から浮かび上がる「私」に重ねるだけ、あるいは「この作品にはこういう「私」が表現されているんだから」、って感じで前もって了解して読むだけ、そのようなものではないでしょうか。 むろん、そのような読み方をすることで最も感動を味わえることができる作品と言うものもあります。また、そのような読み方を求めてくる作品や作者もいます。ただ、それだけが詩ではない、と私は思うのです。 作者の人生と何でも重ねあわせる読み方の辛い所は、書かれてあるのがいきなり直接的な問題につながって、一気に芸術が不自由な所に押し込められる、という部分にあります。たとえば、オジー・オズボーンの曲に「Mama, I'm coming home」という名曲があるのですが、母との仲違いで家を出、しかし自分ひとりの苦悩を経て母をその醜さも込みで受け止められるようになり、いま穏やかに家に帰る者の歌であるこの曲が、「へえ、オジーはもう故郷に帰っちゃうのか?」とか、「オジーってマザコン?」とかの読まれ方をして(いや、作詞は実はレミー・キルミスターですが)、この曲を満たしている美しく優しい空気の広がりに耳をふさぐことがあれば、単純にもったいないと思うのです。 さらに言えば、書かれてある「私」と作者を短絡的につなげて考えることは、実際の人間である作者に対する無理解を導くことにもなります。よく、この前の詩で言っていたことと今の詩で言っていたこととが違うじゃないか、という感じの意見が出てきますよね。先にちょっと書いたレミーなら、自分のバンドでは「We are the Killers!」とか叫んでいるくせして、「Mama, I'm coming home」かよ、裏切られた!とかいう人も出てくる人が出てくるかもしれない。けれど、レミーの中には「the Killers」の部分しかないのではない。そこには、「Mama, I'm coming home」の部分もあるのです。人間とは、それだけの振れ幅を、それだけの立体感を、それだけの不合理性や偶然性を、必然性や規則性とともに分かちがたく併せ持ったものである、すなわち、肉体を持ったものである。「私」と作者をつなげることは、人間の一側面をもってひとりの人間をキャラクタライズしてしまう、そんなことを私は考えてしまうのです。 (むろん、実生活では、ひとりの人間としての自分に目をつぶってでも、自分の一側面を主張しなければならないときがあります。意見表明ってやつですね。しかし、その意見表明がその人の全てではない、その意見表明は0:100で出てきているのではなく、その意見の下にもう一つの可能性が埋もれていて49:51で出てきていることが往々にしてある、ということも忘れてはいけないと思うのです(河合隼雄『こころの処方箋』)。 たとえば、光学理論において粒子放射学の創始者となったニュートンが、自らのその理論では説明しきれない現象を発見していて、補完の必要性を感じていた、そしてそれは二世紀後に波動力学が実現した波動説と粒子説の総合を予示するものであった、ということがカンギレムの『生命の認識』に書かれてあります。粒子説ばかりを光学に関する彼の考えの全てだと思いこみ、ニュートンの名の下に粒子説の完璧さを誇っていたのは、彼の後継者たちの浅薄さだと言えるでしょう) >それは、「私」という存在が、時代そのものと等価となることであり、そういう高みにまで「私」という存在を追求することこそ、「私」という人間が詩を書くという根拠となる。 ここで仰っている「私」は、もはや個人を越えたものであるように思います。「時代そのもの」と等価なわけですからね。できれば、私は時代を突き抜けて「宇宙」と等価になりたいな、なんて思います。それはもはや個人ではどうしようもなく、作品を書いていくことを通してしか無理なことであり、逆に言えば、そのような等価の瞬間の中に掻き消えていき、その中で生きつづけていくために、私は作品を書いているのかもしれません。書かざるをえないのかもしれません。 さきに、私は作者の多面性を言いましたが、そのような作者の多面性を越えてより肉体を持ったもの、作品がそのようなものになればいいな、と思っています。私を越えて、より私そのものであるような作品。そのようなものを探している点において、私は古島さんが仰った「「私」を読者に読み取られることが問題ではなく、そういう読み方をされてその価値を減じるような作品であることが問題なのである」の後半部分に、同意しています。簡単に読み取られないくらいに肉体を持った「私」そのものを作品の中に宿したいな、なんて思っています。 あと、「「私」自身の生き方」が大事という部分にも、実は賛同しています。ただそれが、作品の中にこもる「私」が、作者の書くという行為の継続と断絶によって形を変えていき、それが作者の人生を流れる時間を感じさせる、という点で。要するに、作者と言う人間は、その作品がどれだけ自分とは違う人の話でも、本当に書きたい、これは自分が書かなければならない、という気持ちに従い作品を書くことで、その気持ちに現れている「私」の真実を原動力にし、そして言葉を一歩一歩の足にして、本当の自分自身の人生を歩いていくのでしょう。作者とは、書く行為を通して自らを生み直していき、それによって生きていく者――。作品を通してそのような作者の生が見える時、作者は作品を書くことを通して、自分の人生それ自体を最高の、そしてかけがえのない作品にした、といえるのではないでしょうか。 逐一、といいましたが、もう十分すぎるほど個人的な考えを述べてしまい、これ以上つづけなくてもな、と思います。この辺で失礼します。 大覚さんのお心遣いもありますし、しずかにしなければ、と思いましたが、どうしても性分ゆえ、続けるといったものをそのまま放棄することはできませんでした。すみませんでした。 |