2005年7月18日月曜日

「Ishkar」 scene 1


 歩いていた。踏み出す足はその度に雪の中に埋まり、引き抜いた跡には時折、凍った緑の草が覗く時もあった。歩いていた。ずっと前から、粉のような積雪と吹き上げる地吹雪とで、ズボンの裾は白くうすく凍てついている。歩いていた。見上げる空は一面の鉄色で、そのあまりに重々しい平坦さは、どこまで行っても開けて来そうに思えなかった。というより、その鉄色がどこかで果てると考えることは、空が果てると考えることと同じくらい無理なことに思われた。歩いていた。歩いている。右手には雪に覆われた堤防が遠ざかるように見え、ゆるくカーブを描いて左前方へと曲がっていっていた。目の前にただある、そのなだらかな曲線の向こうに川はあったのか。雪と雲とで薄く紫がかった中空を眺めながら、水橋孝司は、うまく思い出せないでいた。
 しばらく雪かきがされていなかったのだろう。道は既に埋もれ、周囲と同じ高さになってしまっていた。その上を水橋は歩いていく。おそらく、道は堤防にあわせて、左にゆるやかに曲がっている。ここが道だ、と思う雪の上に足を踏み込んで、三歩に一歩は雪の中深くまで嵌まり込み、冷や冷やしながらその足を引き抜いて、水橋は先へ先へと進んでいった。道の左側は広く平らになっていて、葦のような茶色の茎が、雪の上にか細く顔を覗かせていた。
 その平地のずっと向こうには、海があるはずだった。しかし、どれだけ首をひねっても、そこにはただ果てもなく雪が見えるばかりで、海らしき気配を感じとることさえできなかった。道の先には、灯台があるはずだった。水橋は、それを目指していたのだ。実際、「石狩灯台→」と書かれた案内標識にそって歩き出した当初は、その目的地もちゃんと見えていた。しかし、彼が歩む道は一向に灯台へと近づく様子はなく、近づこうとするほどにどこまでも遠回りをして、遠ざかりつづけ、いつしか灯台は彼の視界から消えていた。視界を遮るものは何もないはずなのに、たしかにさっきまで雪景色のどこかにぽつんと立っていた灯台が、今はない。それでも、水橋は歩きつづけていた。ただ、吹き荒れる風の音と自分の息の音だけが聞こえる。鉄色の空を、いやに白い雲が吹き飛ばされるように通り過ぎていった。
 疑問に思いながら手をかけた引き戸がカラカラと軽く開いた時、水橋は自分がひどく疲れきっているのを感じていた。郵便局の前に彼が来たのは午後〇時三十分のことだった。自動ドアの前に立ったが、ドアは開かなかった。郵便局の壁は暗い色調で塗られていて、ドアとその近辺はずっと前から日が暮れてしまっているように見えた。
 「申し訳ございませんが、両脇の引き戸からお入り下さい」そう書いてある張り紙にしたがって、水橋は正面入り口の左の方へと回っていった。そこには取っ手のついたガラス張りの引き戸があり、その手前に六十歳くらいの背の低い男性が立っていた。男性は黒いジャケットを着て黒い帽子をかぶり、壁にもたれかかることもなく真っ直ぐに立っている。水橋のことを見ているとも見ていないともつかない目をしていて、多分、その目は雪を見ていた。ずっと。
 水橋はその景色の中に自分が入っていくことに強い違和感を覚えた。男性の立ち姿が、そのように思わせたのかもしれない。引き戸も自動ドアと同じように薄暗く、手をかけてもまた立ち尽くすことになるだけのような気がした。しかし、戸は意外なほどあっけなく開いた。戸をくぐっても中にもう一枚自動ドアがあり、戸からドアまでの間は室内とはいえひんやりしていた。その空間を横切りながら、水橋はここに来てから初めて、自分の身体が重く疲れていることを実感した。
 郵便局の中は、暖かだった。二枚の自動ドアと正対する形で、長い木のカウンターが置かれていて、その向こうに受付の女性が一人、さらに少し左奥に局長らしい男性が座っていた。それだけだった。受付の女性は、こちらを向いていた。男性も、机の上から軽く目を上げて、水橋の方へと親しげにほほ笑みかけている。水橋は、カウンターの前に立った。しかし、彼は何を言うこともできなかった。
 「こんにちは。何の御用でしょうか?」
 苦笑いを浮かべる水橋に、女性が鈴のような声で問いかける。
 「いえ……。すみません、わからないのです」
 「はい?」
 「何かを探していたんです。それが何かわからなくて……、でも、だからこそずっと探していたんです。ここでなら、その何かについての手がかりが得られるかな、とか、そうでなくても、ここからなら、その何かに手紙を送れるかな、とか思って入ってきてしまったんですけど。……でも、やっぱりどうしようもないですね。住所と名前がわからないと、どうしようもないですね」