古島さんの「補足その4」http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=42702に、逐一お返事を書いてみます。 >先ず、「私小説というものがほぼ死に絶え」という現状認識自体が疑問である。ボクには、今の小説は、「私小説」そのものに思える。それが当たり前となり、そうであるからこそ、それは「私小説」ではなくなったというだけのことにしか思えない。敢えて言うなら、エンターテインメント的私小説と名付けるのが妥当である。 わたしも、大覚さんのこの部分には疑問を感じました。むしろ、いまほど私小説的なものが求められている時代はないような気がします。たしかに、エンターテイメント系の隆盛は、ファンタジーやベタな耽溺型フィクションのブームに支えられ、なかなかすごいものがありますが、その一方で、実際の人間の話に対する興味は弱まっていない。むしろ、互いに結びつき合いながら強くなっている気がします。 しかし、その欲求が私小説には向いていかない。それは、たぶん、実際の人間に対する興味が、単に自分の知っている(あるいは、共感できる)ような身近な人間の話への興味に終止しているからでしょう。ちゃんとした私小説を読むのは、ドエライ体力が要ります。自分とは異質の人間の生と向き合うことになるのですから。そうではなくて、自分が「そうだよね、あるある」と納得できるような話ばかりを求めている。そういうものを通して、リアルを手に入れようとしている。そんな気がします。 あと、私小説は小説家が書いているからいけない、というのもあるのかもしれません。作家は所詮、作家なんだって感じで見られてしまっている。どこかにフィクションの色がついている気がして、そういうのがうそ臭く思える。そんな気がします。それとは逆に、たとえば各界ですごいことをした人とかの物語や告白物などは、それだけで「この人の言うことは本物だ。リアルだ」って感じで読まれているのではないでしょうか。 >「人はどうしてもより具体的な物語を求めたがる」を正しく言い換えれば、具体的な物語に依存するような表現を、作者自身が試みているということが問題であって、読者にその責を転嫁するのは間違いである。 そうでしょうか。たとえば、アンデルセンの「マッチ売りの少女」を読んで、「この人は、自分が貧しい思いをしたから、そのことを思い出してこんなことを書いたんだ」とか、「アンデルセンは、ロリコンだ」とかいうのは、果たしてアンデルセンの責任になるのでしょうか。 これは極論ですが、しかし、詩を作者にひきつけて読むことは、このような極端なことと根を同じくする問題だと思います。 >「作者である“私”そのものではない」と言うのなら、あなたが詩を書く理由はどこにもないし、あなたである必要はどこにもない。 そうでしょうか。たとえば、Zという女性バンドがあったとしましょう。その人たちが歌うために、Nさんと言う男性が歌を書いたとしましょう。無論、その曲はZが歌うためのものであるため、その曲はNさんが自分の気持ちを表現したものではありません。ここで、わかりやすいように、Nさんが、自分の知っている20代後半の女性の実体験に胸打たれた経験をもっていて、今回Zに曲を提供するにあたり、その人の実体験を用いて歌詞を書いたとします。それならば、その歌詞はNさんが書く意味がなかったと言えるでしょうか。 私は、違うと思います。たしかに、書かれてあることはNさん自身のことではない。しかし、(その歌詞のできばえにも寄りますが)そこには間違いなく、Nさんの声が宿っている。知り合いの女性の体験をいかに歌詞にするか、どのような作品として完成させるか。Nさんが書いた意味は、作品の中に現れているのです(その意味で、どれだけ自分のことが書かれていなくても、その曲はNさん自身だ、ということもできるかもしれません。逆に言えば、どれだけ自分のことを必死に書いても、その作品がその人自身にならないこともある、ということです)。 これは、その曲を演奏するZについても同じです。Zが(当時)17、16、15、14歳からなる四人組で、しかもその曲を歌うのが14歳の人だとしたら、彼女は歌詞を書いたNさんとも、歌詞のモデルになった女性とも違うわけです。それでも、彼女がその曲に感動し、なんとか自分のものにしたいと思い、結果、その歌を感動的に歌ったとしたら、その時、わたしたちは一体誰の「私」を聞いているのでしょうか? そこには、モデルとなった女性の生があり、その人の体験に感動し曲に変えたNさんの生があり、さらにその作品に感動し自分のものにして歌い上げたその人の生がある。そして、その個々のあれこれは、皆それぞれに名もない感動から生まれ、そこに我々を運んでいく。そういうものではないでしょうか。曲を聴くとき、我々はいちいちそれを誰それの「“私”の表現」として聴いていないはずなのです。 >「言葉本来の持つ、イメージを想起させる力がそこに宿っている」とは、単なる幻想である。それが真実であれば、誰が表現しても同じ効果が発生するということになる。また、「言葉本来の持つ」という言い方、その根拠はどこにもないはずである。 もちろん、読み手が作者のことを知っていたなら、事情は違うでしょう。谷川俊太郎が「詩人のふりをしているが/わたしは詩人ではない」というのと、秋元康が言うのはやはり感じるものが違うわけです。 でも、まったく知らない人が言う場合だと、そこは関係ありません。今回、「補足その4」で書かれたことを、たとえば「古島」さんじゃなく「小島」さんが言おうと、僕は同じことをここに書いていたでしょう。詩もそうで、ジェニファーさんが「今日は曇っていて京都しか見えない」と言うのと、ロザンナさんがそういうのと、あなたにとってはどっちも変らないはずです。 でも、もし上の言葉をジェニファーさんが言うのと庄兵衛さんがいうのでは、きっとあなたにとって意味は変わるでしょう。しかしそれは、それぞれの人生がそこに籠もっているからではなく、単にあなたが、「ジェニファー」「庄兵衛」という名前から受けるイメージによって、言葉にある方向付けを行い、その意味を違ったものとしてとろうとしているからに過ぎません。そして、作者がどんな人生を送ったか、とかそういう問題も、結局この名前のイメージと似たり寄ったりな所があるのです。要するに、それは作品の根幹ではなく、あくまでそれに味付けするもの、作品というステージを照らすスポットライトの一つにしか過ぎません。それはライトの一つであって、ぶっちゃけそれがなくても、作品は読めるのです。 (私は、ジェニファーや庄兵衛と言う名前が、作品に影響することを責めるつもりはありません。また、作者の人生や、書かれた時代などが、大きな影響を持つ詩が存在することも、当然だと思っています。むしろ、そういう外的な情報も全て含めて、作品は作品として成り立っていると思っています。つまり、どうやら私はそういうあれこれを、全て、作者ではなく作品というもののもとに帰着させたいみたいです。すなわち、詩の言葉と、様々な人間(作者も含みます)との関係によって織り成される、ステージ(あるいは客席まで含む会場と言う空間)のもとに) >さらに、万葉の歌が色褪せないのは、それが万葉という時代の「私」によって歌われたものであるからであり、たとえば、その歌のどれかを、現代の歌だとして、他の歌の中に紛れ込ませてみるといい。その歌を評価する人間など誰もいないはずだ。枕草子しかり。源氏物語しかり。それを現代語にして、今の作家の作品として出版してみるといい。そういうことが実行可能だとしたら、誰が、この平凡な文章を評価するだろう。 「うらうらに照れる春日にひばり上がり心かなしも一人し思えば」。わたしはこれで泣きました。別に、これが万葉集に入ってなくても泣いていたと思います。現代の歌に入っていても泣いていたと思います。ついでに、これに他人の日記の引用を織り交ぜて詩にしてみました。好評でしたよ。 あと、「枕草紙」については、桃色訳なんてものも出ましたね。平安時代もへったくれもないスゴイ訳でした。高橋源一郎が評価してました。 >つまり、「私」というのは、常にその時代を生きる「私」であり、その「私」を通して初めて、その言葉の意味が生まれるのであり、言葉そのものの意味などいうものはどこにも存在しない。 意味という次元に限って言うと、それは正しいでしょう。ただし、「私」を書き手ではなく読み手と読み替えた場合に限り、ですが。その上で、意味から一旦離れると、「言葉本来の持つ」何らかの力というものは、やはりあるものだと思います。わけがわからんのだけどドキドキする言葉とかもありますし(今読んでいるアイヌ神謡集もそうです)、意味はそうでもないのにやけにぐっとくるフレーズとかがあったり。そういうのと出会うと、私は言葉の肉体とぶつかったなって気がします。 >私的に言えば、言葉そのものに価値を認めるならば、スーパーコンピューターに詩を書かせればいいのである。それはちょうど、オランウータンに絵筆を持たせて描いた模様を、ピカソになぞらえるようなものだ。 書いたのがオランウータンだと知らなければ、どっちでもいい問題です。問題は、その画が我々に触れてくるか、我々をどこかに誘うか、ですよ。スーパーコンピューターがどれだけすげえ詩を書けるかわかりませんが、そこにかかれたものが単なる言葉の寄せ集めではなくちゃんと我々に触れてくるのだとしたら、そこには詩があるのでしょう。それをわざわざ、「これはスーパーコンピューターが書いたんだから」と言って非難する気持ちは、少なくとも私には湧きません。 >要するに、「私」を読者に読み取られることが問題ではなく、そういう読み方をされてその価値を減じるような作品であることが問題なのである。そのことは、読者のせいではなく、正しくは、作者の力量の問題であり、作者自身の生き方の問題なのである。 問題なのは、「「私」を読者に読み取られること」ではないでしょう。むしろ、「私」を読み取れる読者がどれほどいるのか、私には疑問です。「私」というのは、誰にとってもそれほどの謎であって、下手したらその謎はこの世界の謎と同じだけの質量を持っているのかも知れず、それを書こうと真正面から突っ込むとわけのわからないことになるし、逆にそれを避けて私を消していくように書いていても、その制作が真摯であれば必ずいつか「私」に帰ってきてしまう、そういう厄介な代物だと思います(詳細な論証は避けます)。 問題は、そのような謎めいた「私」を、いかにも簡単に読者が決め付けてしまうことでしょう。「ああ、この人はロリコンだからこんなのを書くんだな」とか。無論、そんな決め付けを撥ね返せるようなすげえものが書けるのが一番なのですけど、でも、そう読みたいと思う読者はどこまでもそう読もうとするでしょう。で、そう読めなければ、いろいろと難癖をつけてその作品をその作者の名において貶めるでしょう。「この人は、なんでこんなにわけのわからないものを書くんだ」とか何とか言って。 >たとえば、詩を書こうとするような人間なら誰でも、愛する詩人や尊敬する詩人の一人や二人はいるだろう。そういう詩人に出会いながら、敢えて、「私」という人間が詩を書く意味をどこに見出そうとするのだろうか。それは、「私」という人間がその根拠になっているのではないか。それなのに、どうして、「詩」と「私」を切り離すなどと言い出すのか、ボクにはまったく理解できない。詩」と「私」が切り離されたとき、それは詩が自由になるのではなく、まったく意味を喪失した記号の羅列になるということだ。「詩の雰囲気」とは、意味を失った記号の模様に、無意味な価値を認めることではなくて、まさに、そこに歴然とした意味が存在するということであり、それは、紛れもない「私」という人間によって与えられた意味であり、「私」のみが創り出し得たニュアンスでありイメージなのである。そうであるからこそ、この「私」という人間が詩を書くという意味があるのだ。 書かれ、読まれる「私」と、書く/読む「私」、すなわち作品を通して生きる何らかの生との混同が見られます。後者が存在しないとたしかに詩は存在しないでしょう。古島さんが仰るとおり、わざわざ自分で書く/読む意味がなくなるからです。 しかし、前者がない詩があるのも事実です。たとえば、先の短歌などは、一体どんな「私」を現したものでしょうか。いや、まあ、大伴家持なんですけども、私はその人を知りません。しかし、私はこの短歌に感動した。それは、大伴家持が書いたからとか、私が他でもなく大伴家持が作り出したニュアンスに触れたから、とかいう理由によるものではありません。大体、大伴家持作ってことも知らずに読んで感動したのですから。結局、作品に感動したから。言葉に感動したから。そういうことしか出来ないと思います。そして、私が触れたとしたら、それは書く/読む「私」の謎に通じ、言葉の持つ本来の力にも通じる、“生きるということ”だったと、そう思います。 >たとえば、ある人が、半角数字だけの羅列を詩だと言って、このフォーラムに発表したことがある。そういうものを詩だと言って、それですべて埋め尽くされたとしたら、君は、その詩を一体、何日読み続けることが出来るだろうか。あれを詩と言うのなら、あれこそ、「私」がどこにも存在しない、一切の意味を拒否した、言葉そのもののイメージということになるのではないか。君が主張していることは、そういうことなのだ。 まず、方法詩や純粋詩について少しは勉強してからものを言って下さい。あれを投稿しはった方にも失礼極まりない文面だと思います。「言葉そのもののイメージ」なんかではなく、イメージすら排除して言葉や言語芸術や世界そのものを突き詰めていくからこそ、あのような形になったのではないでしょうか。 あと、大覚さんは別に、「私を排除する・意味を拒否する=言葉そのもののイメージ」なんて言ってません。彼が意味とニュアンスを簡単に分けてしまったのは(さらに言えば、作品の主張や世界観を一言で「意味」と言い、それを重視しないことを「意味など必要ない」と言ったのは)、確かに「乱暴」すぎたかな、なんて思いますが、そこから「意味を拒否=言葉そのもののイメージ」という等式を成り立たせるのは、明らかに行きすぎだと思われます。 すみません。まだ、少し残っていますが。ここからの部分はとても興味深く拝読した部分であってもっと慎重に語りたいところでありますし、私も明日(今日?)仕事がありますので、今回はこの辺で失礼いたします。 |