これは、前回投稿させていただいた「もぐもぐさんの呼びかけに応える2 ――裏ダンショウ(2)」の続きになります。前の部分を読まれていない方は、そちらからお読みいただくことをお薦めします。 さて。前回の裏ダンショウ(2)で僕が言ったことは、大きく言って次の三つになると思います。その一、僕が裏ダンショウで言った「時間は、未来から過去へと流れているのではないか」ということは、特に(常識から遠ざかる順に三つ挙げてあるレベルの)レベル3においては、単なる解釈の転換ではなく本当に未来から過去へ流れる時間を想定して書いていた、ということ。その二、僕の時間論は、もぐもぐさんがおっしゃっているような、ある決定された結末を想定して人生をそこに到着するために進んでいくものとする「目的論的人生観」に落ち込むものではなく、むしろそれを拒否するためのものであった、ということ。そしてその三。これは、裏ダンショウ(2)から引用しましょう。 僕の議論の基調は、上のレベル1にも出ていたように、誕生と死の瞬間を特別な瞬間、人生にとって極めて意味のある瞬間としながら、同時にそれを人生の外に置くことです。もちろん、どこにどう生まれるかは人生にとって非常に重要であり、「終わりよければ」ではないにしろどう死ぬか、が人生を意義付ける度合いはとてつもなく大きいでしょう。しかし、それは誕生と死を点ではなくある程度の幅を持つ線と考えた場合のことであり、点としての誕生と死は、やはり当事者の人生に対してある意味で無責任な一つの出来事でしかありません(「出来事」については(2)の2で)。 ここで出てきた「出来事」の理解が、レベル3を読み解く上で必要になってくるものと思われます。しかし、今は急がず、そもそもなぜ僕が時間を逆転させてみようとしたのか、そこから話し始めてもいいような気がします。 別に、個人的には時間が過去から未来に流れようが、未来から過去に流れようが、そんなことはどうだっていい、と思っています。だから、僕が時間を逆転させてみたことは、それ自体としては別に意味深いことでも何でもありません。少なくとも僕にとっては。では、なぜ時間を逆転させたのか。それは、そこから派生する様々な事態に期待して、でした。 高校時代から僕には、抗うべき一つの考え方がありました。それは、本当の何々、真実の何々というものを想定して、それに対する到達度で自分を位置づける、という考え方でした。僕自身がこの考え方をしていて、僕はとりわけ理想が高い人間でしたから、理想どおりになれない自分が苦しくて苦しくて、何回も自殺を諮っていました。小学校六年生の時から、首にはロープの跡が見え隠れし(みんなには皮膚炎と言っていました)、鞄には自分をいつでも殺せるようにナイフが潜ませてありました。 でも、ある時気づいたのです。なぜ、自分がこれほど苦しいのか。それは、自分が宙吊りだからである、と。理想を設定しそれに向かっていくことはたしかに素晴らしい。しかし、階段は今立っている段がないと、そもそも上がってもいけません。ところが僕は、理想という究極の目的地だけを見て、自分が今いる足場を否定していたのです。現在の、完璧ではなかろうが何者かの自分がたしかにある、ということを認めず、そんな自分を消し去ってしまっていたのです。だから僕は苦しかった。宙吊りだった。それを、やめようとある時思った。 勘違いはして欲しくありません。別に僕は、理想をもつことを否定しているわけではありません。ただ、ある理想、ある「本当の自分」を目指すあまり、現在の自分を文字通り無き者にしてしまう考え方から、身を離そうとしたのです。それは、「然り」ということ。本当のものが実在していてそれ以外は無きものあるいは虚像である、という考え方に対して、あらゆるものの存在を肯定すること、つまり、「在る」ということ。 僕はずっと、この考えから出発してきました。ダンショウ(2)にも書いた「世界は下手したら、自分ひとりの幻想かもしれないのだ。自分が死んだらそこでおしまいになる、わたしが主人公の一つの映画なのかもしれない。」というのが僕の思考の根本的出発点だとしたら、この「在る」ということは、映画的人生観と密接に絡まりあった僕の倫理の根本的出発点として、本当に重要な位置を占めているのです。(さらに言えば、僕の存在の根本的出発点として、「生を光が当てられている側面として考えるならば、光が当てられていない所で眠っているわたしもどこかにいるはずである。(中略)われわれは、わたしが生の舞台に上がった瞬間に、分かたれたのだ。しかし、死の後に再び分かちがたい二人として戻るだろう。(中略)「わたし」は「彼」がいるからここに生まれて、ここに生きている。」(ダンショウ(2)より)というものがあります。そして、この三つ(本当はそれ以上)が重なりあう地点に、僕にとってのZONEがあるのです。) とにかく、僕にとっては「本当の/にせものの」という区別に「本質としての有/実在しない虚像としての無」という区別を重ね合わせる思考法が第一の敵だった。そして、このような思考法が導き出す、「虚像から本質へ」というドラマツルギー、さらに言えばそれが人生観に反映されたものである目的論的人生観が大っ嫌いだった。それに反発するために僕が取り得るひとつの手段が、時間を逆転させることだったのです。 一見すると、時間を逆転させることは、起源としての誕生に重要な意味を与え、我々の人生を、その誕生以前の理想状態(イデアっていうんですか?)へと立ち戻るためのもの、と規定することのように思えます。これでは単に、「本当」としての意味づけを終局ではなく起源の方に移したのように思えます。 それは、たしかにそうであって、実際僕の論法の上でもイデア的なものは出してきています(「分かちがたい二人」というものがそう)。しかし、ここで一番重要なのは、僕にとってそのイデア的なものは恋焦がれるものではあるにせよ、人生の過程では絶対に到達できないもの、とされている、ということです。つまり、たしかにそれは「究極の目的地」なのですが、それは「点」として、人生の端にありながら人生の中で面積をもちえないものなのです。イデアがやってくるのは、人生を線として描いた場合、人生の中にありながら同時に我々が責任を持ち得ない人生の外でもあるその「点」においてなのです。それは人生が到達する場所ではなく、よってそれを目指して進んでいくことは根本的には無意味です。 では、どうするか。ただ、その呼びかける力に駆り立てながら、しかしそれを目指すのではなく(なぜならその力は根本的に無方向であるから。「幼児期はそれ自身としては実在しない」(フロイト))常に自分のこの身体から、自分の道を歩んでいくだけです。そして我々の人生が果てる時、目指したはずでもなかった目的地が、我々のもとにやってくるのでしょう。「時には遠く離れながらしかしともに歩み続ける二人の呼び合う声は、すべて、どちらかの頬を流れそしてもう一方がそれを忘れないと誓ったいつかの涙のように、二人の関係の真ん中を流れ落ちて、基地に流れ着くのだ。そして、そこで待っているのだろう。二人がそこにたどり着くのを。二人が基地に帰ってくるのを。」(ダンショウ(2))この「基地」は、そして「二人」は、人生に活力を与えるドライブであり、人生が最終的に流れ着く場所でありながら、目指すべき場所ではない。そして何よりそこに流れ込むためには、我々は「二人」を理想として孤独を思い悩むのではなく、今自分が一人であるこの道を歩んでいくしかないのです。 少し話が横にそれました。ええっと、時間を逆転させることの戦略について語っていたのですね。そのことについて、改めて語ってみます。 我々は、実感としては紛れもなく誕生から死へと生きています。そして、死ぬ時には何らかの目的地に辿り着きたい、という願いも持っています。それが時代によって作られた感性であるとしても、正直そこから抜け出すことは難しい。アンチを唱えることは簡単だけれども、そのアンチですら、結局は同じ時代的土壌の上での堂々巡りになってしまうことだってあるのです。だから僕は、異を唱えてぶつかっていくのではなく、あえて反対すべき思想の内にいながら、そこに少しのズレを生もうとしたのです。そのわずかなズレのせいで、反対すべき思想がそれと気づかぬうちに重心を崩し、転倒してしまう、そのようなものを目指していたのです。 時間を逆転させること、もっと繊細にあのダンショウ(2)のように時間を捉えることは、上のような願いに、ある種の救いを与えます。つまり、あなたの人生はそれが終わる瞬間(実感の上では死の瞬間)に辿り着くべき場所を、ちゃんと(実感の上では)前もって持っているのだよ、と。それと同時に、それは目的論的人生観にかすかなズレを生みます。その辿り着くべき場所を人生の結果とするのではなく、始点とすること。しかもそれを人生の内にありながら外にある場所とし、人生が目指すことができないものとすること。このことで、目的への到達度によって自分の人生や現在を価値づける、ということが不可能になるのです。そしてこれは、ニヒリズムに対する拒否にもなりうる。なぜって、この考え方は目的地(イデア)を「本当」として自分の人生を「にせもの」とするのではなく、むしろ「本当/にせもの」の枠組み自体を取り払って、目的地も人生も全部ありって言っちゃう考え方なんですから。 (長くなりすぎたので一旦きります。後半へつづく) |