2004年9月19日日曜日

もぐもぐさんの呼びかけに応える4 ――裏ダンショウ(2)の2(後半)


   (承前)

 さあ、やっと最後の段階に来ました。この、「本当/にせもの」の枠組みの転倒の最も先端にある考え方であり、同時に上のような時間の逆転を倫理に結びつけるための媒介でもあるものが、「出来事」というものなのです。これについては、もぐもぐさんの「あをの過程さんの時間論-「存在の彼方へ」を読んでみる12」に対するコメントとして、簡単に書かせていただきました。引用します。

わたしがあえて(比喩ではなく、文字通り)時間軸を逆転させたのは、まさに「解釈」を無に返す「出来事」の存在を出してきたかったからです。だから、われわれの人生というのは、死の時に至ってその意味が全て明らかになるものではない。逆に全てが明らかになると思われるほど、あらゆる解釈を経てきた死の時から人生はスタートして、逆に解釈不可能なものとしての出来事それ自体に向かっていくのではないか、ということです。(中略)事件が起こったまさにその瞬間、事件は一つの出来事です。その一瞬(0地点)だけはわれわれの解釈を拒み、自足しています。しかし、当然様々な人から様々な解釈が出てくるから、事態は紛糾する。で、コナンが見つける真相とかも、結局はそんな解釈のうちでその時点で最も妥当性をもち共有されやすいものにしか過ぎず、出来事それ自体では決してない。

 たとえば、コンビニでアルバイトをしている増田考志(仮名)くんが、バイト中に店の時計を落として割ってしまったとしましょう(このお話はフィクションです)。この時、「時計が割れた」はひとつの出来事です。で、この出来事からの距離によって、様々な解釈が生まれうる。
 増田くんにとっては「ああ~! 俺、またやっちまったよぉ。この前はガチャポンをしまい忘れたし、今度こそクビになるかもしれへん。就活もうまいこといってへんし、ほんま最近の俺はダメダメやわ。あかん、泣けてきた」(このお話はフィクションです)ということになりえますし、いや、もっと単純なところでは「店の時計を自分不注意ゆえに落として割った」というのが、彼にとってのこの出来事の意味、出来事の解釈になるでしょう。
 一方、その場にいなくて、店の奥で何かが割れるドデカい音だけを聞いた店長にとっては、「時計が割れた」という出来事は、そのときはまだ「ドデカい音が聞こえた」というものでしかありません。しかし、これも「時計が割れた」に対する、彼の位置からの一つの解釈であるのです。そして増田くんからの内線電話を受けた時点で、彼にとっては「自分の店の時計が、増田によって割られてしまった」という新たな解釈が生まれうる。
 さらに、時計を割って呆然としている増田くんの後姿を垣間見たコンビニの客にとっては、「何が起こったんやろう? どうでもいいけど、早くレジ打ってほしいわあ」であるかもしれませんし、また、ここに全然違う人がいて、たとえば、店の向かいから「時計が割れた」の一部始終を見ていて、そのことに神の啓示を見る、ということもあるかもしれません。

 で、ここで言いたいことは、その解釈のどれもこれも、出来事それ自体ではありえない、ということなんですね。けれど、それでは解釈は全部にせものか、というと、決してそうではない。解釈はたしかに出来事そのものではないにしろ、かといって「時計が割れた」という出来事について語っていないわけではないのです。つまり、みんな「時計が割れた」という出来事としっかり関わりながら、それについて語っている。結局、解釈は出来事それ自体ではなくても、しかし出来事に対してにせものとは決していえない、その解釈のどこにも出来事はないように見えて、けれど全部に「時計が割れた」はしっかり存在している、ということなんです。
 この「出来事」が、「本物/にせもの」の図式を崩すものであることは容易に理解できるでしょう。「本物/にせもの」の図式は、特にそれが目的論的人生観にドライブをかけるような場合には、「本物」をなにか「にせもの」の<奥>にあるもの、探し出す価値のある真実、と見ることによって成り立っていました。けれど、ここにおいて、「出来事」は奥ではなく<表面>にあります。そしてそれは、探し出すべきものでもなんでもない。「時計が割れた」という、それだけでしかないのです。

 少しここから脱線しますと、この出来事の考え方のゆえに、フィクションといわれるもの(小説とか、詩とか)にも、何らかの意味づけが出来るのです。それは、あたかも本物のように語られたにせもののお話なのではない。あるいは、本物の世界に対する比喩としてしつらえられた虚像などではない。そこに書かれた言葉は、まさに言葉という出来事なのであって、それが関わる世界の位相の違いによって「現実」とは区別されるかもしれませんが、決してにせものではないのです(このことによって僕は、一般的に受け入れられている「詩とは比喩によって何かを説明する芸術だ」という考え方、あるいは詩を比喩として作者の心情という「本物」を読み取ろうとする考え方に、真っ向から反対する)。
 映画の中の出来事もそう。映画が終わってしまえば真っ白なスクリーンに還ってしまうとはいえ、真っ白なスクリーンが「本物」でそこに映された映像が「にせもの」なのではない。そこにはたしかにそのような映像が流れた、という出来事があり、その出来事の存在は決して否定されえないのです。(とはいえ、出来事は多重構造になっていて、決して外側にある出来事の方が真実である、とはいえないにしろ、その区別は非常に大事になってくるのですが。)

 さて。もう一つここで重要なことを言いますと。先の例で、「時計が割れた」という出来事が起こった理由はたしかに、一般的に説明すると増田くんの不注意に寄ります。けれど、それが完全に出来事自体を説明しきれるか、というと、そうでもない。だって、増田くんがいかにがさつであり不注意でものを壊しまくっているといえ、壊れていないものもあるのであり、実際その時計も壊れなかったかもしれなかった。だから、出来事は理由といえるものを持つことは出来るが、同時に無根拠でもありうるのです。まさにそれは、「出て来た事」、「あらら、こんなことが起こっちゃったわね」という驚きと共にしか接しえないことなのです。
 もっとも、あらゆることが出来事です。それのいちいちに僕らは驚いてはいられないし、実際いろいろと理由をつけ(疲れていたんだ、とか)簡単に解釈し納得して済ませてしまうこともあるでしょう。けれど、忘れてはならない。解釈は出来事の出来事性を取り払うことは結局出来ないのです。そして、出来事は理由や解釈のうちで消化されなくなるものではなく、いつまでたっても異物のようにそこに存在しつづけるのです。
 そして、我々の人生にとって一番の出来事は何か。それが、自分の誕生なのですよ。なぜなら、「時計が割れた」とかについては、ある程度理由とかをつけて噛み砕くことも出来ますし、そのことによって、我々は自分の人生にそれを引き受けることができる。ある程度までその出来事に対して責任を持つことができる。けれど、誕生については、誰も自分でその責任を負うことが出来ないのですから。
 それゆえにこそ、殺人が許されえないことになります。理由づけることは、出来事から出来事性を取り払い、その操作を可能にする行為です。たとえば、「時計が割れた」ことを僕の不注意ゆえに起こったこととして理由づけることは、それによって「時計が割れた」という出来事を把握した気にさせますし、その出来事が起こってしまったことに対する驚きをなくさしめます。そして、「時計が割れた」はある程度まで出来事ではなくなり、僕という者の下に位置づけられることさえ出来るのです。僕はそれを引き受け、責任を果たすことが出来る。だから「時計が割れた」に対して、その理由付けに応じた(とされる)処罰を受けてもなかなか文句が言えない。
 けれど、いかにも理由づけえないはずの「自分が生まれてここに在る」という事に対して、誰が責任を負えるでしょう。いかなる理由づけも不可能な出来事に対して、一体どのような正当な理由がそれを解釈し、操作可能に出来るでしょう。誕生の否定、存在の否定、そして(いかなる理由のもとでも)殺人が罪でありつづけるのは、それが誰にも理由づけできないものを操作することであるからです(もちろん、遺伝子操作などの問題も最近ではあるでしょう。ただし、自分が生まれる前にどのような操作が施されたにせよ、それは自分の人生の外側にあるのであり、生まれた当人にとっては責任の負いようもありません。それゆえに、遺伝子操作によってできた存在だから自由に殺していい、ということにはならないのです。それは、作った側からのあまりにも稚拙で愚かな理由づけです)。
 
 僕は自分の「世界は下手したら、自分ひとりの幻想かもしれないのだ。」という考え方が、だから「俺はこの世界で好き勝手にやっていいのだ」というものにつながることを恐れてきたのです。だからこそ、自分の幻想であっても幻想としての世界の中の出来事は全て出来事として「在る」のであって、それを否定することはできない。それゆえにこそ、少なくとも殺人行為は許されえない、ということを考えようとしたのです。
 なぜ僕が目的論的考え方を嫌うか。それは先に言ったように、それがいまここにあるものの存在を否定するからです。そして、人を殺すためのあらゆる理由づけは、それに属します(ただし、自分が殺されそうで、相手を殺さなければ自分が死んでしまう、という場合がもしあったとすれば(多分ないとは思うけど)どうすればいいか、というジレンマがそこには残ってしまいますが。これについてはまだこれから考えていきたいです)。そして、この二つをともに否定するのが、ダンショウ(2)第二節のレベル3だったわけです。
 だから、先にもいったように、究極僕には時間がどちらに流れていようが、そんなことはどうだっていい。本物とにせものの枠組みを空虚化させて転倒させ、出来事と存在の貴さ(無根拠さとそれゆえの不可侵さ)を見つめることを可能にし、そしていかなるものも「在る」と言うところから出発しようとする考えが、どうにかして成り立ちさえすれば。
 以上のことは、僕がその誕生以降抱え続けてきた問題ともいえるわけであり、本当に僕の根本にあるものですので、書くのがものすごく怖かった。今でもそうです。だから、もしかしたらわかりにくい所もあるかもしれません。どうかその場合は、まだ書くべき時にはないんだな、と大目に見ていただけるとうれしいです。

 どうしましょう。最後にいつものように、ふざけたふりして少し軽い話をしましょうか。なぜ、ダンショウ(2)が「ZONEに関する」なのか。この時間の逆転について述べた第二節についてだけ、ネタ晴らしをさせてもらいますね。
 「ZONE」というグループ名は、彼女たちの音楽がその領域を広げていくように、という考えから出たものでもあるそうなんですが(そしてそれは、容易に推測されることなんですが)、どうもそれだけではなかったらしいんですね。ある時期までは公式HPのプロフィール欄に書かれていたことなんですが、「ZONE」にはもう一つの意味があったのです。それは、「一番最後から始まって、ONEになる」、という意味だったそうです。
 そこにあるのは何も、オリコンチャートのドン尻からスタートして、いつか一番になろう!というような単純な図式ではないように、僕には思えた。「Z」はアルファベットの順番の最後、そして「ONE」は、数字の順の一番最初。このアルファベットと数字の間にある見えないねじれが何か、とてつもないものを語っているように思えた。また、「ONE」はある意味でオンリーワンという考え方もできるし、アルファベットの順番を考えるとそこから抜け出た存在でもある。それを考えているうちに、今回のように時間の逆転という考えが僕の中に芽生えてきたのです。
 ここからさらにZONEの他の要素へのリンクもあるのですが、それはあまりに大部になるので省略します。まあ、このネーミングの件は、ちょっとした小噺として流して置いてください。それではー。