気がつけば、3月度批評を4月に持ち越してしまっています。真に申し訳ありません。しかし、正直な所、今は自分の小説「みどり」で全力を使い果たしてしまっている上、仕事の方も大変で全然バイタリティーのない状態です。とても、これまでのような重厚なものは書けそうにありません。そんな私の批評でもよろしければ、目を通し、適当に参考にして下さいませ。 では、参ります。 ティラノサウルス 「放牧」 http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=62303 一読すれば、恐らく誰でも、米国産牛肉再禁輸のことが思い出されるでしょう。確かに、この詩はそれをモチーフにしています。しかし、この詩が見せてくれる景色は、例えばその問題に賛成とか反対とかを唱える次元のものではありません。 この詩には、少なく見積もっても4人の話者が出てきます。一人は、詩の話者。第一連、第二連、第三連、そして「小山のような生物が群れ」の連も、彼が語っていると思われます。二人目は、アメリカの農場の男の人。「俺」という一人称で出てくる人ですね。この人は、後でも歌を歌ってます。三人目は、抗議しようとしている人。おそらくは日本人でしょう。そして四人目は、CIA。CIAの癖に、やたらと陽気に天気予報をしています。 しかし、実際、この四人の区別は明確なものではなく、そこには揺らぎが見えます。たとえば、第七連では詩の話者の言葉と見えた1、2行目から、「<テキサス・>と形容される」あれこれ(日本人である我々には実体は持たなくても、なんとなくピンときちゃうあれこれ)が並び、そこから牧場主の言葉が出てくる。さらに顕著な例では、 >抗議します、断固 >お願いしますほんとうに >ところであなた誰ですか? >毎日窓口が変わるので >不便でしかたがありません >リピートします >抗議します、断固 >お願いしますほんとうに >ところであなたこそ誰ですか? ここですね。五行目までは、たしかに日本人(?)が喋ってます。断固抗議してられます。けれど、その断固としてなされた抗議は、リピートされる。リピートされることで、その断固とした存在感、あるいは深刻さを失ってしまう。そしてリピートするその声(誰の?)に、逆に問いかけられる。「あなたこそ誰ですか?」 ここにおいて、断固としてなされた抗議も、その抗議主も、リピートされる音声の中で根づいている“自分”みたいなものを見失わされている。そこに見えてくるのは、リピートされる音声の、異様な軽さと朗らかさです。それは、パロディーの持つ軽さともつながってくるもので、そこでは人は、深刻さを持ち得ない一種のキャラクター、人のパロディーに変えられてしまう。 パロディーの手法というのは、旧来、権威を持つものから権威を奪ってしまう、という点で非常に反権力的な手法でした。しかし、この詩の場合はどうでしょうか。CIAが陽気に天気予報をしている様、アメリカの牧場主が歌っている様などは、たしかに小気味いいものですが、その小気味よさは、決してこの詩がこれらの権威を茶化しているからではありません。むしろ、この小気味よさにこそ、我々は注意しなければならないのでしょう。なぜならば、この小気味よさは詩が彼らを脱権力化しているからのものではなくて、むしろ、彼らが自ら選び取っているものだからです。 繰り返される映画俳優の名前、リーバイスなどの商品名、そして、牧場主やCIAのまるで古き良きアメリカのラジオ放送のような陽気さ、うそ臭さ。それらが我々を包囲し、小気味よく詩を読ませていく。そのこと自体が、私には恐ろしくてたまりません。この軽さは、パロディーのそれではなくて、むしろコマーシャルのそれではないでしょうか。彼らが生み出す軽さの中で、我々はそこにあるものの権威性について見失わされてしまう。恐怖心をどこかになくしてしまう。そして、その軽さを媒体として、商業的なもの、消費社会的なもの、どこかに根ざすのではなく生み出されては消費されていくもの、そのようなものが流通していく。我々の根底を知らず知らずのうちに掻き消えさせていく。 そして、実際、彼らは彼らでその軽さの奥に、ちゃんとした「質感」を持っているのです。軽く、陽気で、のどかなように見えても、「俺の鼻はいつでも/濡れているんだぜ」なわけです。この、濡れている鼻の存在感。この二行の持つ「質感」の確かさ。それが、コマーシャルの中で希薄化した我々を打ち、我々は最終的には「絆されて」しまう。そんな我々に、これまた素晴らしい質感を持った言葉が(具体的には誰から誰宛のものか明確ではないがゆえに(詩の中でそうなるようになっているゆえに)、余計に力を持った言葉が)届けられます。「君たちはまるで羊だ」と。 牛は、偶像崇拝の象徴。その偶像崇拝を否定するところからユダヤ教は始まり、それがキリスト教へとつながっていった。キリスト教において人々は迷える羊であるわけで、そんな自覚を持つキリスト教をニーチェなんかは「奴隷道徳」と呼んだわけですが。ここでは、無宗教であると言われているジャパニーズが羊になっていて、キリスト教が支配的であるはずのアメリカンが牛になっている。無宗教な我々は何も信じていないように見えて、その実コマーシャルとか情とかの形ないものを信じるともなく信じることで、彷徨える群れた奴隷となり、形ない偶像を流通させながら彼らは(奴隷道徳から脱け出て放牧され、肥えていき、)確かに濡れつづけている。牛をその質感ごと灰に変えても同じことで、それが逆に、彼らの濡れっぷり(アンジェリーナ・ジョリーの唇のような)の恐ろしく強かな影響力(灰になっても、というか灰になることで、余計に我々を絆してしまう)の証左になる。繰り返される「moo」という鳴き声は、どこか間延びしていてのどかなのですが、それゆえ余計に、したたかなのです。 この鳴き声に、この軽さと濡れっぷりの両立に、我々はどうやって立ち向かうことができるのでしょうか。 >抗議しましたわ >ええ、もちろん、断固として >止めてやりましたわ >水際でがっちり >でもそろそろ潮時かなって >あたしの無念を >同郷のあの方は >晴らしてくれるかしら なんて、ふらふらしたことを言っていてはならないのでしょう。無論、この日本人像もかなり誇張されたもの、キャラクター化されたもの、もっと言って“嘘”です。でも、この“嘘”を越える自分を、我々は見せることが出来ているのでしょうか。あらゆるものが実体を失って流通するこの時代に生きている我々は、そこでの違和感を抱いていて、ちゃんと根ざした自分を見つけようとしている。それが昨今の詩の流行(あるいは、小説の言葉ではなく詩の言葉に対する我々の欲求)でしょうし、あるいは方言のプチブームなども、そういう点から理解できる面はあります。しかし、そうやって見つけ出されたものは、いわば小さなもの、囲い込むコマーシャルの中でかろうじて自分の部屋に引きこもって身を守り震えているにすぎないものであって、この包括的な“嘘”を越える強度がそこにあるのか、少々疑問です。やっぱり最後は、絆されてしまうんでしょう?と。 この時代や状況の中で、我々はどうすればいいのか。この詩は、そこに対しての答えは提示しません。それは、我々個々が見出していくものなのかもしれません。ただ、一つ考えられることは、彼らがコマーシャルという“嘘”を通して我々を囲いつつ濡れつづけているのなら、我々もそれを逆手に取ることはできないか、ということです。つまり、“嘘”に“嘘”で立ち向かうのです。騙まし討ちを騙まし討ちにしてしまうのです。キャラクター化した時代をさらにキャラクター化することで、それを通してそこにある地金のような根っこを、そして自分を見つけ出す。あるいは権威ならざる権威を暴き出す。つまり、この詩(「放牧」)を書くことです。この詩では、たしかに、彼らのものとしてそれ(騙まし討ち)は書かれました。しかし、この詩がやったこと(この詩のスタンス、この詩のリズム、この詩の展開、この詩の言葉の軽さと確かな質感)を、(彼らのものではなく)我々のものとしてすることできるなら、それはこの時代に対抗する(我々の)方法になるのではないでしょうか。つまり、――たしかにこの詩は答えを提示していませんが、――この詩自体が、答えなのかもしれません。 珍しく、技術的なことは何も言いませんでした。正直、俺ごときがどうこう言えるものではない、と思います。だって、これはこれで出来上がってますもん。詩として自律して生きてますもん。ただ、ただ一つだけそれでも言わせてもらうなら、ジュリア・ロバーツが可哀想、ということです。と言っても、別にガムテープで口を塞がれそうだからではなく、この詩は明らかに、アンジェリーナ・ジョリーが出てきたところから出発しているんですね。第一連はその点で、行き場がない。逆に言うと、この第一連はこの詩の中には収まり切らない部分を持っているわけで。それはこの詩にとって失敗といえば失敗なのですけれど、ある意味可能性でもあると思います。この第一連が持つ暴力的なパワー、その確かさから、またもう一つの詩が生まれるかもしれない。そしてその力こそが、もしかしたら上で書いた「答え」ともつながってくるかもしれない。 でも、これは所詮夢想ですし、それに、そっちの方(暴力的なパワーを詩にしていく方)に進んだ方がよかった、とは口が裂けても言えません。これはこれで、とても素敵な詩なのですから。ただ、作者さん(ティラノサウルスさん)には、そっちの方とこっちの方の二つの方向性があることは覚えておいてもらいたいな、とは思います。どちらの方向性も、それだけだと思って進むと、おそらく道は狭くなってきて行き着く所は袋小路でしょう。この二つの方向性を往還することを通して、あなたの詩はらせん状に深まっていくでしょうし、その果てで(あるいはその最深部で)、離れていたと思った二つのスタンスの、いわば裂け目の奥でつながっているものが、きっと見つかると思いますので(無論、これはティラノサウルスさんに限ったことではないのですが)。 それでは。長くなりましたが、この辺で。適当に参考にしていただければ幸いです。 |