白い部屋の中で、目を覚ました。時計を見ると十二時を過ぎていて、僕はこの休日もまた寝て過ごしてしまったことを、後悔するともなく後悔した。だらしなく乱れたベッドの上から、パジャマを履いた両脚を下ろす。この冬、毎日履きつづけてきたこげ茶色のスリッパは、ファーの部分がぺしゃんこになってテカっていた。昨晩脱ぎ捨てたままの状態で散らばっているのを足先で引き寄せてきて、履きながら立ち上がる。振り返ると、半開きになったカーテンの向こうで陽の光が午後の色になっていた。向かいの家の洗濯物がいくつも(白いシャツや下着、靴下、それにチェック柄の冬物のシャツ、)風を受けてはためいていた。 ドアを開けて部屋から出る。灯りがついていなくても、どこからか差し込む光で廊下は明るかった。その中を僕は一階の方へ降りていった。ボアつきのベンチコートを羽織っていないことに気がついたのは、たぶん、その途中だったと思う。少し寒かったけれど、コートを着忘れても大丈夫なだけ、やはりあたたかくなってきたのだろう。一階にも誰もいなかった。リビングルームでは、テーブルの上にガラスのコップが一つ置いたままになっていて、テレビの電源がリモコンで消しただけの状態で点いていた。 父さんはまだ寝ているのだろうか。それとも、もうどこかに出かけた後なのだろうか。僕はテレビの電源を消すと、木でできた椅子に腰を下ろした。するべきことは何もなかった。椅子に座ったまま、天井を見上げた。土だか鳥の糞だかで、明かり取りの天窓が薄く汚れている。そろそろ掃除しなきゃあな、と僕は思った。けれど、誰が掃除をすると言うのだろう。父さんはいてもいなくてもわからなくて、午後のリビングルームは仄暗く、しずかだった。 くもりガラスになった窓の外が明るかった。そのことに気づいた僕は椅子から立ち上がり、窓の所まで歩いていって、黒塗りのアルミに縁取られた窓を開けた(スルスルと、頼りない音がした)。網戸越しに見える裏の畑は、葉の大きな作物が光を受けてまぶしかった。畑の向こうは雑草が生えるままになった堤防で、その上に、深くも浅くもない青空がたなびいている。ここからどこに行けるのだろうか。窓際に力なく立ったままで、僕はそのようなことを考えていた。何もないここから、僕は一体、どこに行けると言うのだろうか。とりあえず、玄関先に置いたプランターの中で冬眠させたままになっているカメは、そろそろ起こしてやるべきなのかもしれない。その後は、……何をしよう。僕は二階の方を見上げてみた。二階からも物音は聞こえてこなかった。ドアがずっと閉め切られたままの部屋の中で、父さんは今、起きているのだろうか。それとも、もう出かけた後なのだろうか。五年前に買ってからずっと使いつづけている冷蔵庫が、遠慮の少なくなってきた声でうめき始めた。テレビの上には、うっすらと埃が積もっていた。この家に母はいない。ただそのことだけが、確かだった。 「誰も振り返らないね」 残念がるわけでもなく、かと言って楽しんでいるわけでもない口調で、みどりは言った。僕はどう答えたらいいかわからず、小さく「うん」とうなづいた。 「でも、まあ、……何て言うか、ここってそういう所だから」 「ああ、なるほど。たしかにそうかもしれないね」 みどりは僕の横を歩いている。僕とみどりは並んで歩いている。夜の街はビルの灯りや街灯や車のライトなどに照らされてひっきりなしに明るく、すれ違っては通り過ぎていく無数の人々の顔が一つ一つ見えるくらいだった。けれど、その顔たちはどこか、人工的な光の上澄みにとりあえず漂っているだけのようにも感じられた。覗き込むことも、覚えておくこともできない。そんな中で、僕の横を歩くみどりの小さな身体だけが僕には心強くて、恐ろしかった。ギターケースを背負っていないみどりはいつも以上に小さく見えた。けれど、黒いTシャツを着たその背中は、石狩で見た時よりもずっとしなやかに伸びていた。僕は、前の日の夕方に見たインストアライブの感想を、どんな言葉で伝えたらいいかわからないまま、みどりと並んで歩いている。みどりも黙っていた。黙って歩きながら、道沿いに並ぶビルや店舗の灯りを一つ一つ目で追っていた。 「昨日は楽しかったね。みんな、楽しそうな顔をしていた。ありがとう」 不意にみどりがそう言って、僕は、何だかいたたまれない思いがした。他の観客と同じように、僕も楽しそうな顔をしていたんだろう、それは間違いない。実際、昨日のライブは本当に楽しかったのだ。そこで、僕はみどりを見た。みどりとそのバンドの音楽を通して、たしかに何かを見せてもらった。ありがとう。その言葉を言わなければならないのは僕の方だったのに、それをみどりが言ってしまった。 「こちらこそ、本当に楽しかった」 そこまで言って、後がつづかない。街の灯りに照らされて、何人もの人々が僕らとすれ違っていく。誰も振り返らないまま、通り過ぎていった。 「そう言えば、失踪――、どうなったの?」 僕が言うと、みどりは少し意外そうな顔をした。しばらくこちらを見つめて、それから(ようやく思い出したのだろうか)、笑った。 「ああ、あれね。……どう言えばいいのかな、わたしもいつの間にかね、自分の場所を見つけたのさぁ。どこにいても大丈夫って言うか、それがあるからこそどこにでも行ける、って言うか……」 みどりは歩きながら目を伏せた。その横顔がとてもうれしそうだった。その横顔を見つめながら、僕はこの人と自分とが別の景色の中を歩んでいるんだと、今さらのように思い知らされた。 そして、みどりが目を上げた。 「だってほら、ね? 昨日見たっしょ」 そこでまた笑う。 「また来てよ、孝司くん。わたしたちの場所に。絶対。そこでまた、みんなと一緒に会いたいのさ」 ――ありがとう。 その言葉は、やっぱり言葉にならなかった。僕は手を差し出した。その手を、みどりの手が、握った。みどりの手のひらは小さく、少し冷たかった。けれど、この手のひらと指とから、あの音楽たちは生まれたのだ。この手につながる身体から、あの音楽たちは鳴り響き、今でも鳴り響いている、海鳴りのように、巡りつづけ流れつづける川のように、この命(みどりの命、僕の命、そして誰のものでもない二人の命)が終わるまで、そこでいつまでも脈打ちつづけている。 やわらかな手のひらだった。やわらかで、底知れないほどに深かった。 「もう、起きたんだね」 僕の顔を覗きこみながら、みどりが訊いた。顎までするっと落ちていく、すっきりした両頬の線。思いつくとおりに切り散らかしたような、雑草みたいな短い金髪。深みのある光沢をさらに深く沈めているために、どことなく緑色がかって見える黒くて細い眉。目も細く、白目がちだけどどこかやさしくて、笑うとその目がもっと細くなる。僕はそれを知っていた。そして、みどりは今ここにはいない。僕はそのことも、知っている。 「うん。起きた。……ありがとう」 白い部屋の中で、僕は目を覚ました。窓の向こうはまだ夜が明け切っていなくて、空は淡く青紫色に透き通っている。僕は布団から起き上がると、自分の形に馴染んでいるその布団を、たたんだ。ユニットバスに行き、歯を磨いて顔を洗う。洗顔用石鹸を洗い流して顔を上げると、鏡に他でもない僕の顔が映っていた。髪を梳かし、顔を拭きながら部屋の中に戻る。ワイシャツを着込んでネクタイを締めた。早朝の空気は、部屋の中にいてもまだ肌寒く感じられたけれど、そうは言ってもコートが必要なほどではない。スーツを着込み終えてから、僕はヘッドフォンをかけた。これまで何回も聴いてきたCDをまた、再生する。それが終わるとヘッドフォンを外して、僕は出入り口の方に歩いていった。 「生きていますよー(笑)。おかげさまで(ほんとにおかげさまですね・笑)色々と親孝行もできて、心からうれしく思ってます。やっぱり、お母さんには何だかんだで心配もいっぱいかけてるからね。その分、これまでの恩返しとかできるのが本当にうれしい。そして、何より、今のわたしたちのことを楽しみにしてくれてるっていうのが、本当に本当にうれしい」 先日届いたばかりのみどりからのメールを、僕は扉の前で読み返していた。メジャーで二枚目のアルバムを出した後も、みどりは時々メールを送ってくれている。けれど、中島の消息については、ずっと聞けないままだった。「働かなければ、生きていけないだろう?」かつて彼が言ったあの言葉に対して(それに背中から支えられながら)、今では自分なりの答えを見せられているような気がする。僕も、みどりも。それぞれのあり方で、僕らは生きていた。 僕はケータイを閉じると、重い鉄の扉を開けて外に出た。今日の講義に、学生たちはどんな顔をしてやって来るのだろう。新入生たちは一体どんな顔をして、講師になりたての僕が綴る言葉を、聞くのだろう。外の空気は一層澄み切っていて寒かった。振り返ると、今は閉まった扉の向こうで、みどりのギターが鳴りつづいているような気がした。白い部屋は白い部屋のまま――家が一つの楽器のようだった。 (終) |