「何してるの? さっきから」 不思議そうな顔をして、朋子が僕の顔を覗きこんでいる。僕は、自分の右手が胸の前で奇妙な動きを繰り返していることに、その時唐突に気がついた。 「ああ、これね、トリプル・ストラムっていうんだ。ウクレレの弾き方」そう言って、僕はゆっくりやってみせる。「四つの弦を人差し指で弾いて、――あ、ウクレレはギターと違って四弦しかないからね、――その四つの弦を人差し指でこう、下向きに弾いて、次は親指で上向きに弾く、で、最後はこうやって人差し指で上向きに弾く。これがトリプル・ストラム」 「へえ、すごいね」そう言って、朋子はミルク・ティーを飲む。コーヒーは苦手なのだそうだ。店の引き戸の前で、積もった雪を払っている時に、独り言のようにぽそりとそう言っていた。カップを置いて、彼女がいたずらっぽく笑いながら僕をたしなめる。「どうでもいいけど、コーヒーこぼさないでね」 僕は小さく笑って応えると、いつからか自動的につづいていた動きをやめて、コーヒーカップを手に取った。 「でも……」と朋子が急にさびしそうな顔になって、口を開く。「やっぱり、違うね」 「何が?」僕は、変に不安になる自分を感じながらも、できるだけ自然にそう聞いた。 しばらく黙ってから、朋子はしずかに話し始める。「さっきのトリプルなんとかだけどさ」 「うん」 「いや、……波」 「波?」 「うん、波」 そう言って、それきり朋子は黙ってしまった。僕は、再び辛抱強く待たなければならなかった。 「右手の動きとか、それが作るリズムとかが、わたしたちのギターとは違うなあ、と思って」彼女がまた口を開いた時には、僕のコーヒーはぬるく、残り少なくなっていた。「手首のふわふわした動き、バネみたいに弾ける指の動き、わたしたちには、きっと無理だから」 そう言って、彼女は笑ってみせる。それは特別かなしそうな笑顔ではなく、むしろ朗らかなくらいだったのだが、そのために却って、彼女の表情は僕の心にまっすぐ入り込んできた。テーブルの向かいの奥まったところ、僕の手も届かないほど遠いところで、白い顔がさばさばとした表情で笑っている、ずっと笑っているのだ、今でも。 この時、僕は彼女を慰めるべきだったのだろうか。「いや、やってみたら意外とできるようになるもんだよ。気にしないで」とか軽々しく言うべきだったのだろうか。しかし、その言葉は何か、根本的に間違っている気がした。朋子が言っているのは、努力とか身につける能力とか、そういうことでは多分ないのだろう。では、いったい彼女は何のことを言っていたのか。そして僕は、この時彼女にどう答えればよかったのか。 「ねえ、ちょっとお願いがあるんだけど」と朋子は言った。「ウクレレのコード、やって見せてよ。エア・ギター、――いや、エア・レレって言うのかな、――まあ、とにかく、エアでいいからさ」 「え? ……うん、いいよ」さっきまで言うべき言葉について悩んでいた僕は、突然の申し出に不意をつかれ、少々戸惑った。けれど、この言葉で彼女の中の何かが切り替わったような気がしたので、僕も気持ちを切り替えて、いくつかのコードをやって見せた。できるだけ、明るいコードが多くなるように。 ほの暗い店内の何もない中空に、僕の指が、いくつもの形を一瞬固定させては、たちまち崩れていく。それをずっと見つめていた朋子が、「同じだ」と言って、笑った。その目は涙で濡れているようにも見えたが、本当に彼女が泣いていたのかはわからないし、今となっては聞くこともできない。「わたしたちと、同じだ」 彼女は笑いながら、テーブルの上に左手を置いた。すぐ近くにあるキャンドルの光で、手の甲がより一層なめらかに見える。小刻みにゆらめく光に照らし出された彼女の指先は、一見してわかるほど皮が分厚くなっていた。おそらく、これまで相当ギターを弾いてきたのだろう。僕は不意に、すぐ近くにあるその手を握りしめたくなった。けれど、それはいくらなんでも唐突だろうと、あと少しのところで我慢した。自分の指先に集中している僕の視線に気がついて、彼女は恥ずかしそうに左手を引っ込める。 「手を見られると、照れるよね」そう言って、照れ笑いを浮かべた。「わたしの父さんや母さん、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの手は、きっと他の人にも誇れるんだろうけど。わたしの手は、まだまだきれい過ぎる。だから、汚い」 それから、朋子はしずかにミルク・ティーを飲み干した。そして、こんな言葉を最後に残して、彼女は席を立った。「ああ、あったかくなった。これでやっと歌えるべさ」 コートを脱いでニットだけになった背中は、雪でできたあたたかい壁みたいだった。右手には、ギターケースを提げている。喫茶店の奥の方に、小さなステージのような所があり、そこにはマイクもおかれていた。彼女はそこに立ち、ギターをケースから取り出して、コードをアンプにつないだ。スピーカーのヴォリュームを調整し、ピックを持って軽くコードをひとつ弾いた。その時だった。小刻みに揺れていた僕のテーブルのキャンドルが、消えた。 彼女の歌は、淡々としていて、それでいて切実に胸の中に染み入ってきた。札幌の夜気のようだと思った。ギターのストロークは、特別うまくも激しくもなかったが、ひとつひとつ、まさに今ここで刻まれている音で、今ここでふるえ、そして消えていく音で、僕はその音の流れにいつしかいっぱいに満たされてしまっていた。他のお客さんは、何人かは彼女の方を見ていて、何人かはそこで何も起こっていないかのようにコーヒーを飲みつづけている。それが、マイクの前でただギターをストロークしているだけの彼女の姿、本当にただそれだけなのに、他の何ものにも変えがたくかっこいいその立ち姿を、しずかに引き立てていた。彼女のピックが独特の曲線を描きながら六つの弦を撫でるたび、僕は彼女が言った「波」という言葉が、どんどん僕の内部へと差し込まれてくるのを感じていた。 キャンドルは消えている。彼女はギターを弾きつづけている。僕は暗いテーブルから、やや明るいステージの上の彼女を見ている。僕から彼女は限りなく遠い。誰も、僕の方を見ない。彼女はこちらを向いているが、きっと、僕のことなど見えてはいないし、僕のことなど知りはしないだろう。朋子は歌いつづけている。彼女の左手が、六つの弦の上にいくつもの形を一瞬固定しては、たちまち崩れていく。僕は、その店内にもいない。僕は、どこからも引っ込んだ場所にいて、結局のところどこにもいない。そこは暗く、こちらからは色々なものが見えるけど、むこうからこちらのことは、一切見ることができない。逆に言えば、僕はどこにもいないからこそ、さまざまなものを絶望的に見つめつづけているほかないのだ。そして、どこにもいない僕のことは、僕自身からも見ることができない。僕は、この席から立ち上がることすらできない! しかし、朋子は歌を歌い終わってしまった。彼女は片づけを終えると、ギターケースを提げてステージからこちらへと戻ってきた。僕は、ポケットの中を必死に探した。火を灯さなければならなかったからだ。僕はキャンドルに火を灯し、このテーブルをもう一度照らし出さなければならない。しかし、ポケットの中にマッチはなかった。どれだけ探してもマッチはなく、それはホテルの部屋のテーブルの上にある。僕はそれを、目の前に見つめつづけている。 部屋はしずかだった。橙色の照明に、どこからともなく照らされて、木製のテーブルが薄暗さの中で四角く縁取られている。その上に小さなマッチ箱がひとつだけ乗っていた。マッチ箱は薄っぺらだったが、しかし、あまりにも濃い紺色をしているせいか、持ち上げることができないくらいに重く見えた。いや、むしろ、手を触れることさえできないみたいだ。それは影のように実体がなく、目にはたしかに見えるのだけれど、光によって見えているのではなく暗さによって見えている感じで、奥行きがない。奥行きがないのだけれど、それが薄っぺらさや軽さを感じさせるかといえば、必ずしもそうとばかりは言えず、軽いことでどこまでも重く、薄っぺらなことでどこまでも深くて、けれど、鉄をもった時のように重いわけでも谷底を見つめた時のように深いわけでも当然ないのだから、結局のところ、何を言ってもそれはやはり影のようだった。 もちろん、こうやって語っている間にも、こんな言葉とは無関係にマッチ箱はテーブルの上にあって、僕の目から離れない。僕は夜の札幌で立ち止まり、生き物みたいに渦を巻く雪を見つめているのだ。僕の方へと、朋子が何回でもすうっと背中を向けて、滑るように闇の中へと歩き出していく。狸小路を二度通り過ぎる。足元に僕が倒れていて、「オンガクですよ」と朋子が言う。声がしたのは左の方だったけど、誰もいない。朋子がすうっと背中を向ける。「僕はヤドカリですかいな」「遠くから来たの?」震える帽子、あるいは吐きそうな帽子だ。朋子がすうっと背中を向ける。「あなたが朋子なら、わたしは紀浩でいいでしょう」 そして、ステージから戻ってきた朋子が、僕の向かいに腰かける。この時、一斉に闇が轟音を立てた。ピアノのすべての鍵盤を一斉に叩いたような不協和音が響き、それは不思議ときれいな和音のようにも聞こえ、あるいはそもそも音など何も聞こえなかった。いつまでも消えないその残響の中に腰を落ち着けて、朋子がこちらへと親しげに笑いかけている。そして僕には、もはや答えるべき言葉も伸ばすべき手もない。 海岸にいた。海を見ていた。空は鈍色で、小さな粉雪を狂ったように舞い躍らせている。振り返ると、雪に埋もれたなだらかな丘が見え、雪かきもされていないその丘には、たった一つの足跡もない。丘の斜面に棒杭が何本か並んで立っていて、雪の下から、蓬の穂が顔を覗かせているのがかすかに見える。丘の上の方に、民家が一軒だけ見えている。丘のむこうには、きっと人が住んでいるのだ。電信柱が等間隔に何本も立っていて、そこから繋がっている電線が横様に空を切り分けている。しかし、空は圧倒的に大きく、重い。 丘を降りてきた所には、何のためにあるのかわからない、骨組みだけの粗末な観測台がぽつんと建っていて、もちろんそこには誰も乗っていない。観測台は一つだけではなく、海と平行に点々と建っていて、それを追って視線を横に移動させると、視界の彼方で雪をかぶった巨大な山脈が、凍った高波のように鎮座している。かすかにのぞく砂浜の砂は、溶けた雪に濡れて黒々と硬く、その上で打ち寄せた波のいくつかが凍りついていた。積もった粉雪が、風に吹かれて海の方へとささあっと駆け出していく。そしてそのまま暗く重たい海の中に消えてしまう。 真っ白な貝殻が、粉々に砕けて、黒い砂浜に陶器の破片のように埋もれていた。それは、白く凍りついて砕けた、ウクレレの欠片なのかもしれなかった。弾くべき楽器も、借りるための宿も、この海岸にあるはずがない。明日はなく、夜も朝もなく、ただ途方もない今日だけが、影のようにありつづける。重々しい波音。また波音。 ここには誰もいない。「あなた」も、「僕」さえも。鈍色の空に投げるためのマッチは、丘のむこうの民家の中にだけ、あるのだろう。つららの垂れ下がる、要塞のような遠くの小学校から、子どもたちの嬌声が海鳴りのように聞こえつづけている。 |