2006年4月17日月曜日

「私」という技術


 ええ~っと。何だかむずかしそうなタイトルですけど、今回は、くだけた感じで書いてみますね。まず、何で書くかと言うとですね、よく、詩を書いている方で、技術のことをすごく嫌いな方がいますよね。そういう人にとっては、たぶん、詩の技術って言うのは、「詩を綺麗にまとめるためのもの」「詩をかっこよく見せるためのもの」って感じだと思うんです。で、そういう技術が嫌で、「自分はありのままの気持ちを書くんだ!」みたいなことを主張していらっしゃる。いらっしゃるわけです。
 でも、私にとっては、技術ってそう言うものじゃないんじゃないかな、って思うんです。じゃあ、どういうものなんだ?と言われると、なんか、「「私」という技術」としか言えないんですけどね。でも、それじゃあ意味不明でしょ?(笑) だから、何とかその「「私」という技術」のことを書こうかな、と思ったわけです。

 いきなり話はトビますけど、みなさん、「正座」にどんなイメージを持ってますか? 窮屈? 足がしびれる? 体罰のひとつ? 束縛されていた古い日本の遺物?
 たしかに、私もそのように考えてました。足もしびれるし、こんな姿勢を強要されてた昔の人って不幸だったんだな、なんて思ってました。でもね、大学に入って合気道をやるようになって、そこで、膝行(しっこう)っていうのを教えてもらったんですね。これは、正座した姿勢から立ち上がらずに移動するってものなんですけど、むずかしいんです、これがまた。でも、これができなきゃ話にならないってことで、頑張って稽古しました。膝が破れて胴着の腰下(こした)が血だらけになるくらいに稽古しましたよ、ええ(笑)。
 そしたらね、どんどん楽になってきたんです。正座でいることも、そこから動くことも。なんにも無理しなくても、正座の姿勢から自然に前に進めるし、後ろにも下がれるし、くるりん、と180度回転することもできる。た~のしいんだな、これが。いちいち立ち上がらなくても、何でも出来ちゃうんですから(笑)。
 これが楽だってことは、うちのおじいちゃんが亡くなった時のご葬儀で実感しました。ご焼香とかの時に、「よっこいしょ」って立ち上がって前に行って、戻って来て、また座って、なんてことしなくてもいいんですよ。正座している所からさっと前に出て、そのままご焼香を済ましてさっと後ろに下がって、はい、おしまい(笑)。

 そもそもね、正座っていう姿勢は、今のように椅子やテーブルのある時代に生まれたわけではないわけです。腰かけるところもなくって畳に直に座らなければならなかった時代、それにくぐり戸とかの背の低い戸とかが普通にあった時代に生まれたわけですよ。足を伸ばしていてそこから「よっこいしょ」と移動したりするんじゃなく、いちいち腰を曲げてくぐり戸をくぐったりするんじゃなく、正座を基本にしてそのままで移動できたら、動きもスムーズだったろうし、何より、そういう建築の条件に束縛されなくて自由だったと思うんですね。逆に言うと、正座と言う一つの姿勢の中に、日本の建築が生み出す空間が現されていたんだと思うし、そのような建築空間を生んだこの日本の風土とか精神性とかも全部現されていたと思うんだわ。正座は、そういう日本の世界観と言うか宇宙観みたいなもの、そういうものが形になったものの一つだったんじゃないかな。それも、ただその環境の中で束縛されてるって言うんじゃなくて、その環境の中にいながら、同時にその環境を超えて自由であるってことだったんじゃないかな。そう思うんですね。

 こういうことを書く時、いつも思い出すんですけど、みなさん、『千と千尋の神隠し』は観ました? あの映画の中で、主人公の千尋は最初、引越しで小学校の友だちと離れることが嫌で、駄々をこねているんですね。それこそ、手足をばたばたさせて。で、そういう千尋が古い日本みたいな別世界に紛れ込んじゃうわけです。その時、千尋はずっこけまくっているわけです。くぐり戸では頭を打ち(たしか)、雑巾がけをしては滑ってぺしゃんこになって。
 そんな千尋が、たしか映画の後半になった辺りで、くぐり戸をくぐるシーンがあるんです。その時、千尋が正座の姿勢のままですっと戸をくぐって、戸をぴしゃっと立て切るんですね。ここ、私にとっては、「わー」としか言えないシーンなんですよ。そして、千尋はその別世界から帰ってくる時には、自分の身体の扱い方も心得ていて、友だちと離れる悲しさに向かい合うやり方も知っている。そして、自分の気持ちに引っ張られて駄々をこねるんじゃなくて、その気持ち全体を抱えることも見つめることも誰かに伝えることも出来るようになっている(少なくとも、観客である私には伝わっちゃった)。それが、すごいなあ、と思ってしまったんです。
 もちろん、こんなことを書いているからと言って、私は「今の若者に正座を教えるべきだ」なんてことを考えているわけではないですよ(笑)。だって、私たちは椅子とテーブルのある時代に生まれたわけだし、正座は日本の建築空間や宇宙観と結びついてこその正座であるわけで、結びついているからこそ、そこから自由にもなれる姿勢だったわけでしょ? そういうものから切り離されたただの正座、正座のための正座を練習したって、そんなの、意味ないっしょ。だべ?(笑)

 んでね、ここから詩と技術の話に戻りますよ。やっとだわ(笑)。
 私たちってね、どこにいても、その環境から自由ではないんだと思うんです。例えば、「自分の気持ちを自由に書きます!」って言っても、それは私たちが持ってる日本語を使って書かなきゃいけないでしょ? それに、私たちが「自分の気持ちを正直に」って言っても、それは結局は、「自分の気持ちを正直に表現する文章」を真似ることになっちゃうかもしれないわけです。
 悲しいから「悲しい」って書いたとしても、それは、元々は言葉で書かれていない感情と言うか、もっと大きいもののことを、ただ「悲しい」っていう言葉にしただけで、その感情の中にあるもっと大きいもの、悲しいと感じている私の全体とか、そもそもその何かを悲しいと思う自分のこととか、その自分と関わってくるこの世界の色々なこととか、それと自分が関わっている関わり合い方とか、……そういうものは、書けないことになっちゃうよね。
 しかも、そういうのって結局、「あなたが今直面していることは「悲しい」って言う感情なんですよ。それを「悲しい」と書くことが、あなたの気持ちを正直に表現したことになるんですよ」っていう誰かのささやき(笑)にそそのかされただけだべ? 騙されてるよ(笑)。それって、本当に自分をありのままに表現したことになるのかなあ?

 それってね、私にとっては、なんだか駄々をこねてる千尋みたいに思えるのさ。自分の気持ちを全身で表現しているように見えても、実際は自分の気持ちとか、気持ちを超えてもっと大きいもの、えーっと、世界って言うか「私」? その「私」全体のことを見られていないし、見るための術も持ってないし、その全体を伝える術も持っていなくて、ただ、不自由さの中でもがいているだけ。そういう風に見えてしまうんです。
 でもね、そんな千尋も、その術を手に入れるわけなんです。ちょうど正座と言う一つの姿勢がね、一つの姿勢の形をとって日本の建築空間や宇宙観を現していたように、表情だとか言葉だとか歩き方だとか、あー……生き様って言うのかな、何かそういうものなんですけど(笑)、そういうものを通して、千尋全体を現すことができるようになってしまうのですよ。この時、千尋は一人の「私」として存在したな、なんて私は思うわけです。映画っていうフィクションの中でですよ、一人の「私」として立ち、座り、歩いていくことが出来るようになった。その動作とか静止とかの一つ一つの形が、すべて千尋の「私」と結びつきあって、形にはならないような大きなその「私」を形一つ一つの中に表現している、そんな一人の「私」としてゆるぎなく存在できるようになった。……う~ん、うまく言えてるのかな……。まあ、そんな風に感じちゃったわけです、はい(笑)。

 ちょっと前の部分で、私は悲しいことを「悲しい」って書くことを非難するみたいなことを書いちゃいましたけどね、実際は、それもそれでいいんだと思ってるんです。その「悲しい」って言う言葉の中に、「悲しい」っていう一言では現しきれないような「私」全体が込められているんだったら、それはそれですごい言葉なんじゃないでしょうかしら。
 って、こんなことを書くと、何て言うんだろ、詩の技術ってものが、Aっていうものをどれだけ正確にAとして読者さんに届けるか、っていうものになっちゃう気がして、それだったら最初に書いた「詩の技術」と何にも変わりなくて堂々巡りになっちゃうんだけど。違います!(笑) ええ~っと、……詩の技術ってそういうものじゃなくて、そもそもAである「私」を見つけられるようになるための技術って言うか、本当にありのままに見られるようになるための技術って言うか、そう言うものだと思うんですよね。自分でも見られるようになって、それが文章になるから、読者さんにも届く、と言うか。これって、逆に言うと、ありのままに書けるようになることで、自分のありのままの見方が初めてそれとして見つかるって言うことだとも思うんです。再発見みたいに思えるかもしれないけれどね。でも、形になったものと出会うってことは、やっぱり初めての出会いでもあるんじゃないのかな。何度でも見つけて、何度でも初めて会う(笑)。
 して、そこで見つかるAである「私」っていうのもね、Bである「私」とかCである「私」とか、そういうものと結びつきあって、「私」全体になっちゃう。そんな「私」全体を、見られるようになる技術。そんな「私」全体が見えてしまうような形や、それを現す形としての技術。詩の技術って、結局そう言うものだと思うんです。それはもっと言っちゃうと、詩なら詩、小説なら小説、音楽なら音楽って言う形を通して、っていうかそういう形を通ることで、そこには収まり切らない自分を、一人の「私」を存在させる技術でもあるんですよ、たぶん。一つの形を取りながらね、その形から自由になっていく。あらゆる形から自由になっていく。昔の日本人が、正座をすることで、日本の建築空間の中で自由になっていったように、ね。

 したっけ、そうやって自由になった「私」ってのは、今ここにいるしかない私って言う個人からも、やっぱり自由になれるんですよね。「私」全体を見つけることで、「私」を通して色んな「私」と結びついていくって感じかなあ。逆に言うと、一つの形を取ることで、それを通して、その形の中に「私」と関わる世界や時代とか、もっと言うと時代も何もかも超えた様々な「私」の全体を、現してしまう。よく、芸術の意味みたいなものを、感情移入に求める人がいるっしょ? でも、私にとっては、その感情移入みたいなものも、上に書いたようなところとつながってくるものに思われるんです。
 んで、神話とか、非人称の芸術みたいなものもね、これと同じことに、逆の方向からライトを当てているだけなんだと思う(と言ったら、言いすぎかな)。そういうものって、いち個人としての「私」の側から書かれたものなんじゃなくて、それらが結びついていって世界全体になって、いち個人が見えなくなったような側から書かれたものなんじゃないでしょうか。でも、その誰も見えないような世界の中には、やっぱりいち個人としての「私」も含まれていくんですよ。でなきゃ、そもそも神話が人の手によって書かれる必要はなかったと思うし、それが人々の口から口へ伝えられてくることもなかったと思うのね。っていうか、神話の話に限っちゃうと、神話は基本的には口承文芸であるわけで、そこにはそれを謡う人の声や、その人なりの表現とか改作とか、それを聞く人たちの声とかも宿っているはずなんです。して、その人たちの死も越えて、神話はその人たちの声を含みこみつつつづいていく。それはちょうど、「私」が死んでも世界はつづいていくっていうことを言ってくれているみたいで、それだからこそ、神話の口承に関わった人たちやそれを聞く人たちは、「私」の声っていう形を通して、いずれ死ぬしかない私から自由になれたんじゃないかな、なんて思うわけですよ。
 現代の非人称芸術になったら、ちょっと話は変わっちゃうんだけどね。口承文芸でもないわけですし。でも、それも結局は、「私が死んでも世界はつづいていく」っていうことを言おうとしているようにも思えるし、映画の中に取り込まれちゃって駄々をこねるしかなくなった私を、私を超えた「私」全体として存在させるために、世界全体を存在させようとしているようにも思うんです。それは別の言い方をすると、個々の映画の世界を一旦更地に返す芸術、個々の映画を超えて広がるスクリーンの白へと還元していく芸術、個々の映画の色に紛れて見えなくなっている白い根底を剥き出しにする芸術、なんじゃないかな。してそれって、やっぱり、世界全体という方向から「私」全体へとつながって、最終的には「私」を存在させる、「私」全体を取り戻させつつ自由にする、そういう芸術だと思うんです。って、やっぱ、いつもの思い込みかな?(笑)

 なんか、すごいところまで行き着いちゃいましたね。はい、勉強になりました(笑)。このままだと収拾がつかないので、ちゃんとおさらいしておきますね。詩の技術って言うのは、「詩を綺麗にまとめるためのもの」「詩をかっこよく見せるためのもの」なんかじゃなくって、ありのままに見られるようになる形、ありのままに見られるようになることを通してありのままに書けるようになる形、逆に言うと、ありのままに書けるようになることを通してありのままの自分の見方を発見する形、ありのままの自分の見方を何度でも見つけて、それと何度でも初めて出会う形、一つの世界の中でそれに収まり切らない「私」全体を存在させる形、そうすることで「私」を自由にしていく形、世界全体を存在させる形、……なんか、「ありのまま」と「形」ばかりになっちゃいましたけど!(笑)そういうものだと思うのです。一言で言って、詩の技術とは、「私」と世界を存在させる技術、「私」という技術です。まとまりましたね、うわーやったー!(笑)