部屋はしずかだった。橙色の照明に、どこからともなく照らされて、木製のテーブルが薄暗さの中で四角く縁取られている。その上に小さなマッチ箱が一つだけ乗っていた。マッチ箱は薄っぺらだったが、しかし、あまりにも濃い紺色をしているせいか、持ち上げることができないくらいに重く見えた。いや、むしろ、手を触れることさえできないみたいだ。それは影のように実体がなく、目にはたしかに見えるのだけれど、光によって見えているのではなく暗さによって見えている感じで、奥行きがない。奥行きがないのだけれど、それが薄っぺらさや軽さを感じさせるかといえば、必ずしもそうとばかりは言えず、軽いことでどこまでも重く、薄っぺらなことでどこまでも深くて、けれど、鉄をもった時のように重いわけでも谷底を見つめた時のように深いわけでも当然ないのだから、結局のところ、何を言ってもそれはやはり影のようだった。 もちろん、こうやって語っている間にも、こんな言葉とは無関係にマッチ箱はテーブルの上にあって、僕の目から離れない。それを手に取ったかどうかは覚えていない。僕はマッチ箱を手に取ると、振り返って鏡の前を通り過ぎ、自動ロックのドアを開けて外に出た。廊下には赤の敷物が敷き詰められていて、同じような外観ではありながら、実際のところ一枚一枚違う表情をしたドアが、白い壁にふたつずつセットになって並んでいる。僕の後ろで重い音をたててドアが閉まった時、僕は不安になってポケットを布地の上から触ってみたけれど、部屋の鍵はちゃんとあるようだった。少し安心した。僕は廊下を歩きながら二度ほど曲がり、エレベーターを使って一階まで降りた。そして、フロントに鍵を預け、「いってらっしゃいませ」との声にわりと自然な笑顔で応えてから、一枚の自動ドアと一枚の引き戸をくぐり、雪が舞い狂う夜の札幌へと踏み出していった。 しかし、こう言ってみても、やはりマッチ箱はテーブルの上にある。それは僕の目を離れず、僕はしずかな部屋の中で、じっとそれを見つめつづけている。 外は、ひどく吹雪いていた。粉のように小さくてあたたかい雪が、夜の闇をほとんど隙間もないくらいに覆っている。薄く赤紫がかった街灯の下、積もった雪も風に巻き上げられて再び舞い上がり、降る雪と混ざり合いながら自由自在に大きな渦を巻く。それは、何か巨大な、それでいて塊でも有機体でもない生き物だった。それは僕の前にカーテンのようにかかっていて、けれどその中をほとんど抵抗もなく進んでいくことができる。僕の歩みによってあまりにも簡単にかき分けられていく波立ち。しかし、それでいて僕の頬に冷たく触れ、いつの間にか僕の上着を真っ白に変えてしまっている小さな粉粒。 雪はしずかだった。風はびゅうびゅう鳴っていたのかもしれないし、そう思うとたしかに聞こえていたような気もしてくるのだが、僕が覚えているのは、夜闇の中で悠々としかし激しく巻き上げられている粉雪のしずけさだけなのだ。道も建物も駐車場の車も、みんな厚い雪に覆われている。なだらかに曲線を描くそのやわらかな面は、わびしくなるほど穏やかに止まっている街灯の光によって、白く照らし出されていた。 どこをどう歩いたのか。街灯の灯りから灯りへと、僕は雪に足を埋めながら進み、僕の肩を越える積雪をあたたかく思いながら進み、曲がり角で曲がり、進んでまた曲がり、夜闇のむこう、葉を落とした高木の幾多の枝先が白骨化した指のように絡み合うのを感じておびえ、そして除雪車と乗用車によって均された道を横切ってまた曲がり、気がつけば、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。 一度、狸小路を左手に見ながら歩いていたのは覚えている。商店街のアーケードの上に雪が積もっていて、サラリーマンが二人ほど、その下で服の雪を払いながら騒いでいた。それを横目に見ながら通り過ぎ、それから何回か曲がって、もう一度狸小路の近くを通ったのだろうか。わけのわからないアーケードがあって、やはりその上でも雪が崩れ落ちそうに隆起している。震える帽子、あるいは吐きそうな帽子だ。アーケードの下に人はいない。何か棒切れみたいなものが二本落ちていて、その上にも少し雪が積もっていた。灯りが消えて薄暗い商店街は、ずっと奥へとつづいていて、果ては見えなかった。僕はその光景を右手に見ながら進むと、道路を渡って向かい側の街灯の下へと歩いていった。 いい加減、ホテルに帰りたいと思い始めていた。第一、何をしに出てきたのかすら定かではない。コンビニで明日の朝食を買うためだったかもしれないし、夜中に急にラーメンを食べたくなったからかもしれない。とにかく、僕は道に迷っていた。唯一たしかなことはそれだけで、僕にはもはや時間感覚はおろか、自分が歩いている感覚さえもなくなっていた。寒さも空腹もまったく感じない。あるのはただ、降り続く雪のしずけさと、代わり映えのしない景色、そして碁盤目状に規則正しく現れてくる道また道なのだ。本当に帰られるという気はとうに失せ、それによって支障を来たすであろう明日の予定についても、何一つ具体的に思い描くことが出来なかった。第一、明日とは本当にあるのだろうか。僕はいつしか立ち止まり、舞い狂う雪をしずかに眺めていた。 道を渡り、しばらくまっすぐ進んでいく。そうすると、道の長さや幅などから、どうやら自分が東西に走る道の上を歩いているらしいことがわかってきた。奥へ奥へと突き進んでいたはずの自分の歩みが、実は横に移動していたのだとわかるのは奇妙な気分だ。僕は急いでいた。僕は帰らなければならなかったからだ。僕は帰って、明日迎えることになる明日に備えなければならない。誰がそんなことを決めたのかわからないが、とにかく僕はホテルに帰って明日を迎えなければならないし、そのことで明日は明日として僕とともに明日にならなければならない。 札幌の交差点は、僕が生まれ育った京都の交差点よりも親切で、そこからの区画が何条何丁目になるのか、四つの信号の脇にそれぞれ案内を出してくれている。しかし、白地に青のその文字も、今晩は積もった雪にところどころ隠されていて、うまく読むことができない。バス停があると助かるのだが、と思いながら僕は歩きつづける。何となく、北に行くと帰られる気がしていたのだが、どちらが北かわからない状態で適当に曲がっても、それで南に進んでしまう危険性が非常に高い。そう考えていると、不意に雪に足を取られてふらついた。僕の脇、雪かきで積み上げられた雪の山は僕の身長を越え、その上の方から、風にあおられた粉雪がひっきりなしに逆巻いて、僕の頬を打つ。 足元に倒れていた。本州のような形に積もり、なだらかな稜線を描いている分厚い雪の下で、足元に倒れていた。雪の下からのぞく細長いもの――それは、僕だった。そして、これまでずっと歩きつづけてきた誰かが、倒れたままで顔も上げない僕を、すぐ近くから茫然と見おろしている。 いや、違う。それは、バス停の標識だった。それを茫然と見下ろしている、僕がいた。バス停に書かれた文字はやはり読めない。しゃがんで雪をぬぐう気にもなれなかった。第一、これは本当にバス停なのだろうか。「オンガクですよ」と朋子が言った。 「え?」 僕は不意をつかれ、声のした方を見る。声は左から聞こえてきたが、そちらには誰もいなかった。紺色に塗られた自動販売機が、雪の上にいやに白々しい光を広げている。 「だから、これはオンガクなんです」 もう一度声がした。バス停を見つめていた僕は不意をつかれ、声のした方を見る。声は左から聞こえてきて、そちらには背の低い女性が立っていた。彼女の肩越しに、紺色の自動販売機が放つ、いやに白々しい光が見える。 女性は、黒いコートを着ていた。髪は短く、ゆるやかにウェーブがかかっていた。黒目がちの目はつぶらで、やや幼さを残す白い頬の上に二つ、濡れたサファイアのようにちょこんと並んでいる。僕と同じで、二十一歳頃だろうか。あるいは、彼女の方が二つか三つ年上なのかもしれない。黒い袖の下にのぞく手の甲は、透き通るように白く、なめらかで、かなしくなるほど小さく見えた。 「音楽……ですか」 僕は、彼女からバス停(らしきもの)に目を戻しながら、言う。 「ええ、オンガクです」 女性が、のびのびした声で答える。「オンガク」というのが、僕が思うとおり音楽なのか、それとも何か別の漢字で書かれるものなのか、そしてそれが、このバス停の名前なのか、それとも今ここで倒れているものそれ自体の名前なのか、僕には一向にわからない。 「遠くから来たの?」と朋子が聞く。僕は、「うん、京都から」と正直に答える。「その割には、寒さに強いんだね」と言って、朋子が人懐っこい笑顔で笑う。テーブルの上で組んだ彼女の両手の、すぐこちら側で、一本のキャンドルの火が、小刻みにゆらめいている。 いや、違う。それはもっと後の話だ。僕らは、札幌の街をさらに歩いた。彼女が僕をあたたかい店に連れて行くと言ってくれたからだ。というのも、僕が帰るべきホテルの名前さえ忘れていたからで、その上彼女がちょうどその店に行く途中だったからだ。彼女は、自分の名前を朋子と言った。僕は、自分の名前を紀浩と言った。彼女は僕にすうっと背を向けると、夜闇の中へと滑るように歩き出した。僕も彼女の背中を追ってたどたどしく歩き出した……かどうか、いまいち定かではない。 「その、背負っているもの、何なんですか?」 不意に、朋子が僕に聞いた。 「あ、……これですか?」言われて初めて、僕は自分が何かを背負っていることに気づく。赤紫の街灯に照らされた雪の中で、背中の荷物を肩越しに確かめながら、僕は答える。「これ、ウクレレです」 「へえ、貝殻かと思った」 そう言って、朋子が愉快そうに笑い出した。その様子に、僕もつられて笑ってしまう。「そうそう、貝殻背負ってはるばる北海道までね……って、僕はヤドカリですかいな」 人がいることの安心からだろうか。一旦吹き出た笑いはなかなか止まらなかった。倒れているオンガクのそばで、僕らは声を立てて笑い合う。その後、彼女は僕にすうっと背を向けると、夜闇の中へと滑るように歩き出した。彼女の背中に、エレキギターの黒いケースが背負われていて、それが彼女の見えない足取りに合わせてかすかに左右に揺れている。それを見つめながら、僕はたどたどしく彼女の後を追った。しかし、彼女との距離は一向に縮まらず、むしろ、僕が追えば追うほどその背中はどんどん遠くなっていくようだった。 とはいえ、気が遠くなるほどに彼女が離れていったとしても、よく見ると彼女はいつも追いつけるくらいの距離にいた。そして、滑るように歩きつづけている。ギターケースはかすかに左右に揺れていて、僕は、目に飛び込んでくる細かい雪を払いのけながら、その背中を追いつづけていた。しずかだった。自分の足音すら聞こえなかった。もしかしたら、僕は立ち止まっているのかもしれない。いや、それは多分違うだろう。もしそうなら、彼女はすぐに見えなくなるはずだ。しかし、彼女の背中はいつも目の前にあり、僕の前を今まさに遠ざかっていく最中なのだ。そして、僕はその背中をいつからか追いつづけていて、いまだに立ち止まることもできないままでいる。あるいは、最初から立ち止まりつづけていて、目の前を歩いていく彼女のことを、闇の中からずっと見つめつづけている。 「僕はヤドカリですかいな」 「へえ、貝殻かと思った」 |