2006年3月19日日曜日

小説 「みどり」 (8)


 言葉は何も聞こえなかった。見渡しても、見回しても、空は鈍色で平らだった。風の生む音の高い沈黙が、その空を一面に満たしている。あとはただ、雪が見えるばかりだった。雪の中からは、ところどころで葦のような枯れ草が顔を覗かせていた。僕の右手のずっと遠くの方に、建て直しの途中で忘れられてしまったような大きな家が一軒(旅客用のログハウスか何かだろうか)、置き去りにされている。その家を横目に見ながら、僕は歩いていた。道らしきものはなく、既になくなっていて、たぶん植物の見えない辺りがそうなんだろうけれど、そうだと思って足を踏み出してもその度に膝まで雪の下に埋まってしまう。僕は歩いていた。どこまでもなだらかにつづく雪の中を、とりあえず、あの壊されかけたままの家の方へ。けれど、本当に辿り着くのだろうか。辿り着いたとしてもその後のことはわからないし、雪と空しかないここでは、それらのことはどうしたって考えられるはずもなかった。
 昨日見たライブの光景がよぎる。真っ暗なライブハウス、顔の見えないたくさんの聴衆とそれを抱え込んだ箱型の空間、熱気、頭上で叩き合わされる無数の手のひら、あるいはじっと聴き入っている呼吸の川肌のようなさざめき、青を基調とした照明の中でステージは浮かび上がり、フットライトに明々と照らし出されたみどりは椅子に座って身体を前後にゆすりながら弾いて、弾いて、弾いて、子どもみたいな笑顔でギターを弾きつづけている。ステージの中央ではヴォーカルの女性が立っていて、マイクだけを持った身体を屈めたり、手を前に伸ばしたり、楽しそうに飛び跳ねたりしている。その歌声はのびやかな脈を打ちながらどこまでも姿を変えていき、そこからまた塞がれて巡る川のように大きく戻ってくるけれど、そこでどんな言葉が綴られていたのか、僕には思い出すことができなかった。引き裂いていくような風が吹きつづけていた。音の無いうなり声ばかりが僕の耳元を埋め尽くしていて、言葉は何も聞こえなかった。ステージ右手では、もう一人の女性が二人の方を時々笑顔で見遣りながら、ピアノに指を吸い込ませている。リズミカルでやわらかで、濡れながらきらめくような音がたしかに鳴っている。けれど、その音もやはり思い出すことはできなかった。重苦しく平面的につづいている空と、宛てもない雪原だけが見えていた。ズボンの膝下は真っ白で、ジャケットもその表面が薄く凍りついていた。昨日の音楽も昨日の熱気も、ライブハウスのあの暗さでさえ、ここからは切り離されてただ、遠くにあった。
 海から離れていくにつれて、雪はいつしか深くなくなってきたようだ。どこにも道は見えなかったけれど、植物と植物との間は拓かれたように広くなっていた。先ほどまで足を苦しめていたいびつで荒々しい傾斜も、ここからずっと、平坦に延べられている。足が雪に取られてバランスを崩すこともずいぶん少なくなった。大きな家は、さっきよりも少し近く、大きくなっていた。隙間の目立つ壁を覆うようにかけられた、緑色の網が見えていた。
 均されたような一面の雪の中で、目は自然と(なんとなく)道を見つけ出していく。ゆるやかなカーブを描いて家の脇を通り過ぎ、そのままずっと先まで進みつづける、まだつけられてもいない自分の(誰かの)足跡が見えた。それが本当に道である保証は誰もしてくれなかったけれど、僕は自分が見た足跡に沿って歩いた。歩くばかりだった。風と雪とが、僕の顔や上着を強弱をつけて打ちつけつづけている。
 やがて、家の前に着いた。僕は立ち止まり、今は使われていないその建物を見上げていた。窓ガラスの向こうは暗く、古ぼけた色をした壁板の何枚かは剥がれ落ちていた。屋根は多角錐(たぶん、十二角錐)の形をしていて、その上には厚く雪が積もっている。緑色の網は壁を覆うようにかけられていたけれど、壁の一部やドアなどはそのまま僕の目に(そして、外の白い光に)晒されていた。役目を果たしているのか果たしていないのかもわからない状態で、その網は風にもあおられずに垂れ下がっていた。
 僕はまた歩き出した。家の右手には、間隔を空けて真っ直ぐに列ぶ杭が見えていて、それがたぶん、道だった。けれど、杭はわずかに五、六本あるだけで、そこから先は雪の下に埋もれている。僕は、杭がなくなっている辺りから左に進むことにした。左に曲がって一歩踏み出した瞬間、また足が膝まで埋まってしまう。けれど、ここまで歩いてきたのだ。もう、雪の深さを恐れることもなかった。
 ずっと向こうに、赤と白に塗り分けられた小さな灯台が見えた。とりあえず、今度はあそこまで歩いてみよう、と僕は思った。中島の立ち姿、「働かなければ、生きていけないだろう?」という言葉、そしてギターを弾くみどりの笑顔がどこかに浮かんで、浮かんでは風に千切れていく。足がももの辺りまで埋まってしまい、次は死ぬかもしれない、という思いがごく身近なものとして感じられた。言葉は何も聞こえなかった。みどりの母親が、プリントやらノートやらがいっぱいに入ったカゴを片腕から提げて、立っている。ピンクと言うよりは淡い橙色と言った方がいいような色をした、あったかそうなベッドに腰かけて、部屋のドアを開け放したままでみどりが音楽を聴いている。身体を小さく揺らしている。「おい、みどり!」彼らは生きてきたのだ。この寒さの中で彼らは強く(そして弱く)生きてきて、――今も生きつづけていて、――ここでただつづけられていく彼らの暮らしとともに、労働も、音楽も、身体も生まれた。ここで何度でも生まれつづけている。「大学のサークルでもバンドはやってたんだけどね、もっと、……もっと、ね」
 僕は歩いていた。耳に貼りついた風の轟きと一緒になって、自分の呼吸がいつからかずっと聞こえていた。灯台の向こうに何があるのか、僕は知らなかった。帰ることができないかもしれない、いや、帰ることなどできるはずもないその一本道を歩きながら、僕は、あの家のあたたかさのことを思い出していた。テーブルの向こうから身を乗り出して、みどりは深い瞳で覗き込む。中島はまだ帰ってきそうになかった。壁にかけられた時計は、もう三時に届きそうだった。ペチカが焚かれたダイニングキッチンで、みどりの淹れてくれたコーヒーがしずかに湯気を立てていた。