2005年5月3日火曜日

小説 「忘れる。」 (前半)


自作の詩「遅れる。」(http://awono-katei.blogspot.com/2004/05/blog-post_8874.html)への遠い回答として。


 雪が融けたら、忘れちゃいけないことが二つある。一つは、金魚にエサをあげること。そしてもう一つが、原付のエイミーに乗って、街に出かけること。嘘みたいに雪がなくなって、夢みたいに外に出てきた人たちが行き交う、陽気な足音の、春の街へ。

 トルルルルルルル……トウ、トウ、トウ、トウ、

 長い長いまっすぐな坂を下って、遠くに見える街並みに向かって走っていく。右手には、海。圧倒的な群青の鎮まりの中に突堤が突き出ていて、そこでは白と赤に塗られたいくつもの巨大クレーンが、頑丈であからさまなその骨格を昼の日に晒している。拠り所もなく中空に伸びきった腕と、そこから真っ直ぐに垂れる一本の糸。ゆったりゆったりと動きながら、っていうかそうすることで逆に、出来るだけじっとそこに留まりつづけながら、停泊中の大型貨物船から、えんじ色とか青色とかのコンテナを運び出している。鉄の板で四角く囲まれた、しずかで儚い積み木の中に、何が入っているのかわたしは知らない。
 耳元で、風がごうごうと渦巻いていて、わたしの近くの景色は速かった。エイミーのエンジンの音は風船みたいに軽くて、空気そのものみたいな振動が、わたしの身体に伝わってきている、気がした。何回か横を向いて見てみても、クレーンはやっぱり少しも動いていないみたいで、ふと目が行った道端の家では、カーペットを敷かれた犬小屋の中から犬が一匹吠えていた。わたしは、笑った。

 ペーーーーーーーン、トウトウトウ、ペーーーーーーーン、

 本当に大丈夫? 典子はいつだって、気がつけばぼんやりしてるんだから。
 わたしの家に原付が来た夜、母さんはそう言って、笑いながら心配した。
 忘れものもよくするし、それにほら、まだ、高校からの帰り道さえ覚えていないじゃない。
 大丈夫よ、大丈夫。これまでだって、どうにかこうにか生きて来られてるんだから。
 そう言って、わたしは元気よく笑った。あの晩は、夜のつめたさが遠い気配になって食卓を包み込んでいたはずなんだけど、母さんとわたしの笑顔が、あっけなくそれをふるわせた。楽しかった。よくは覚えていないけど、でも、楽しかったんだと思う。
 今でも残る写真の中で、わたしはエイミーにまたがりながら、とてもうれしそうに笑っている。けれど、その写真はエイミーが来たあの晩ではなく、たぶん、何日か後の昼から暮れ方にかけて撮られたものだ。雑草が乱杭歯みたいに突き出た、なつかしい千歳のあの庭に、うっすらと色づいた陽の光が照り返っているから。
 わたしの笑顔は、誰からもよく、癒し系だと言われていた。その呼び名も、どちらかというと嫌いでもない感じだったけど、でも、いつだってその言葉の奥に、もっとよく見てほしいわたしの何かがある、そんな気がしていた。自分ちの庭で、わたしはきっと、誰のためにも笑っていなかった。その写真を誰が撮ったのかはわからないし、そんなことは、どうでもいいと思う。誰を癒すためでなく、わたしはわたしとして、笑ったのだから。
 この写真の笑顔は、母さんに大丈夫と言った時の笑顔とも全然違うはずで、母さんに向けた笑顔は、今はどこにも見つからない。これからだって、同じ笑顔で笑うことは出来ないだろう。それもそれで、いいんだと思う。何もかも形に残さなくても、わたしは、笑った。母さんと、笑ったのだ。あの時の楽しげな雰囲気が、街からの風になって頬を打つから、わたしは、首をすくめてアクセルを切り足した。

 トルルルルルルル……、トウ、トウ、トウ、トウ、

 金魚を飼い始めたのは、函館に移ってからだった。それがいつのことだったかはっきりしないけど、とにかく三匹とも、気がつけばぴっちぴちに育っていて、わたしは「おう!」と驚いた。透明な金魚鉢の中で、淡い淡い夕焼け色の光を周りの水に散らしながら、今日も泳いでいる。
 こちらに近づいてくる時、つるんとした三角形の横顔はびっくりしたみたいに大きくなって丸くゆがむし、遠ざかっていくと、すばやくターンする尾ビレの連打だけを残して、後ろ姿がゆがみのむこうに抜け出していく。平地みたいな頬の上で、カンペキな同心円になっている金と黒との眼は何も考えていないみたいで、それが可愛くてちょっとこわい。でも、金魚たちは何も考えていないわけではなくて、きっと、わたしたちとものの見方が違うだけなのだ。実際、金魚はとてもよく人間を見ている。無関心にしていると思いきや、気がつけばいつも、こっちの方をそれとなく眺めながら、皮の薄い口をいっぱいに、パクパク開きつづけている。
 胸ビレをひらりひらりと動かしながら、あっちに行ったりこっちに来たり、浮かんだり不意に沈んだり、ふうっと動きを止めて漂ったり、漂いつづけたり、そしてターン。その間中、ずっと眼は見開いていて、口はずっとパクパクしているのだ。わたしが気づかなくても。わたしが見ていなくても。

 トルルルルルルル……、トウ、トウ、トウ、トウ、

 金魚たちはゆがんだガラスの壁いっぱいにまで近寄って、こちらを覗き込もうとひらりひらりする。何粒かのエサを落とすと、今度は水面ギリギリ、というか空気中にまで唇を押し出しながら、パクパクが一斉に加速した。時々、半球形の泡が水面にあっけなく生まれて、あっけなく消える。ぱちん。水の泡らしく、そこには何の彩りも物語もない。金魚たちは必死で、わたしは薄暗い朝のガレージでエイミーのエンジンをかけている。