トルルルルルルル……、トウ、トウ、トウ、トウ、 ペーーーーーーーン、トウトウトウ、ペーーーーーーーン、 原付に乗るようになってからも、わたしは何度も道に迷った。いつの間にか宵闇が辺り一帯に降りていて、わたしはその中を、エイミーと一緒にいつまでも走りつづけた。全然知らない道では、どうやら木も普段の木ではなくなり、道も普段の道ではなくなるらしくて。様々の太さの幹や枝葉が、複雑に絡まり合いながらこちらを見つめて沈黙し、道の脇で、何かの殻が音を立てて弾けていた。夏には、蛙がどこからか一斉に鳴き立ててきたし、血のように蒼い夜空の星を見上げながら帰ったこともある。隙間だらけの白い森の上空を、ゆっくり横切っていく薄物のような夕暮れを、この目の前で何回も見た。 ペーーーーーーーン、トウトウトウ、ペーーーーーーーン、 怖かったでしょう? 迷ってから帰ると、母さんは決まってそう聞いた。そんな時、わたしは決まってこう答えていた。 ううん。きれいだった。 それは、強がりではなく、本音だった。怖くなかったと言えば嘘になるけど、でも、その怖さはこの上なく、きれいだった。どうやって家に帰れたのかは覚えていなくて、それを思い出そうとするといつも、わたしはどことも知らない広い道の真ん中に立っている。エイミーはいなくて、ただ、わたし一人だけ。自分の足で立っている。そこはたぶん、小学生時代に通ったことのある道で、でも、どこに通じているかということさえ、わたしはすっかり忘れてしまっている。暗くなり始めた空では、青紫の雲が遠い誰かに語りかけるみたいに、鈍い光で瞬いている。 そこから、どうやって家まで辿り着いたのだろう。とにかく、わたしはいつだって、気がつけば家に帰っていた。その帰り道はたったの一つも覚えていない。けれど、ただ、決まってこう答えていたことだけは確かなのだ。 ううん。きれいだった。 トルルルルルルル……、トウ、トウ、トウ、トウ、 函館の街には、制服姿の女子高生が多くて、その中には、明らかに新入生らしい若々しい顔も見つかった。わたしは、その一人一人に言葉をかけて行きたかった。けれどエイミーは車道の上を快調に走るばかりで、沿道の景色をわたしと一緒に通り過ぎていく。 赤信号で止まった時、斜向かいのジェラード屋さんに入っていく後ろ姿が見えて、わたしにはそれが、高校時代の親友のように思えた。信号が変わるのを待つ。そしてまた、走り出す。後ろ姿が制服を着ていたことにはすぐ気づいた。彼女はいま、東京の会社で仕事をしているはずなのに。 母が家ごといなくなった時、わたしは何も言うことが出来なかった。自分がまた、何かの間違いで自分の家を忘れてしまったんじゃないか、と思った。わたしはケータイを取り出して、「函館の叔母さん」と書かれてある人の家に、電話をかけた。その「函館の叔母さん」は、何度もわたしに電話をくれたと言うのだが、エイミーに乗っていたわたしは、気がつかなかった。思えば、ケータイにある着信はいつも、友達からだったように思う。けれど、どんな友達から着信があって、どんな会話をしたのか、わたしはそれさえ思い出せない。ましてや、「函館の叔母さん」には、こちらから電話したこともないはずで、 原付で家を飛び出して、いったい、今までどこに行ってたの? 電話口のむこうから聞こえる声は、やっぱり、一度も聞いたことのない声だった。 トルルルルルルル……、トウ、トウ、トウ、トウ、 母さんはわたしが中学生の頃に死んだのだと言う。みんなが母さんの思い出話をする中で、わたしは一言も言葉を発さなかったと言う。叔母が自らの悲嘆に任せて、お母さんが死んだっていうのに、あんたはどうして悲しくないの? と問い正した時、わたしは燃えるような目で叔母を睨み返したのだと言う。 自分が覚えていることばかりで、母さんを勝手に要約なんかしてしまわないでよ! 学校のテストなんかじゃないのよ! 母さんの人生は! そう叫んだらしい自分の怒りが、たしかに今でも、この身のどこかに残っている気がしないでもない。でも、忘れた。 わたしは忘れたわ! だから、絶対、他の誰よりも覚えている! ペーーーーーーーン、ペーーーーーーーン、 何もかも忘れてしまうわたしにとって、何が本当かわからないことなんて不思議でもなんでもなくて、叔母の言葉も、わたしの記憶も、どっちもわたしにとっては本当のことでしかない。十四歳の時に函館に引き取られたはずのわたしは、千歳の家の広い庭でエイミーにまたがって笑っていて、その庭を、うっすらと色づいた陽の光がやさしく満たしているのだ。その写真はちゃんと、今でも手元に残っている。その写真を誰が撮ったのかはわからないし、そんなことは、どうでもいいと思う。誰を癒すためでなく、わたしはわたしとして、笑ったのだから。 丸くゆがんだ金魚鉢の中で、空気中にまで唇を突き出して金魚たちは口をパクパクさせている。わたしはまた、薄暗い朝のガレージでエイミーのエンジンをかけている。あるいは、コンテナの脇を抜けて、すでに春の街の中を通り過ぎている。いくつもの光景をくぐり抜けて、わたしはそれら一つ一つを、大切に、大切に忘れていく。嘘みたいに雪がなくなって、夢みたいに外に出てきた人たちが行き交う、陽気な足音の、春の街へ。わたしもまた、いつかの春に、一つの足音として生まれ変われればいい。そう、思うから。 雪が融けたら、忘れちゃいけないことが二つある。一つは、金魚にエサをあげること。そしてもう一つが、原付のエイミーに乗って、街に出かけること。冬を忘れ、夏を忘れ、ただ春の夢の中に、この身ひとつで駆け出していくために。この二つだけは、決して忘れずに生きていく。今もあるこの身体とともに。空気みたいな、エイミーの振動とともに。 たとえ、何もかも、形に残さなくても。 怖かったでしょう? ううん。きれいだった。 (二〇〇五年五月三日完成) |