工場は今日も動きつづけている。四方を白い布で囲ってあるため、その中で何が行われているのかは見えないが、鉄を断ち、鎚を打つ甲高い音、柱と柱とがぶつかり合い組み上がっていく際の鈍い振動、そして、積み上がっていた何ものかが唐突に崩れ落ちて起こる容赦のない衝撃が、のどかな青空の下、小止みなく鳴り響きつづけている。 僕は座って工場を見ている。それが、僕に与えられた仕事なのだ。今日も異常は起こりそうにない。僕は明日、ここに来なくていいことを思い出し、今日は金曜日だった、と、いまさらのように気がついた。 二週間が経ったのだ。行かなかった結婚式から、二週間が経った。四月一日、――あの日、ウェディングドレスを着た栞は、いつも以上に白く滑らかな肌をしていて、その皮膚のむこうからは、凛として引き締まる〝栞〟という存在の確かな重みが感じられた。両の瞳には、「不安と期待」といった月並みな言葉を超えたしなやかな強さと、真っ直ぐに伸びる彼女の道とが映し出されている。…… これらの光景は皆、友人から聞いた話と、ウェブ上で見つけた何枚かの写真と、あとは普段の栞を知っていた僕が勝手に付け加えたディティールとで、知らず知らずのうちに出来上がっていたものだった。栞の式の最中に、僕は心斎橋で他の新入社員たちと酒を飲んでいた。それは、入社式の後に有志が自発的に開いた飲み会で、同期の中でも来ているのは六割に満たなかった。行かなくてもよかったのだ。僕がいなくても、よかったのだ。 高校時代、僕と栞は公認のカップルだった。同学年の誰もが知っていて、卒業アルバムにも、二人一緒に談笑している写真が載っている。栞の両親まで、僕らの交際を喜んでくれたし、栞の家で昼食をご馳走になった五月の日もあった。しかし、それらはもう、みんな四年前の話なのだ。僕は、目の前の工場の動きに集中しようとする。いつの間にか、白い布の中で新しいふくらみが出来ていて、不意に、大きな塊が地面に落下して轟音を立てた。しかし、落下したのが何であるか、僕は依然、推測することさえ出来ないでいる。 僕に気を使ったのか、誰も、栞の夫のことについては話さなかった。不思議なことに、夫の姿はウェブ上の写真にも一切写っていなくて、それはまるで、栞がその式を経ることによって、初めて夫のもとへと歩みだしていくかのようだった。 僕は、僕のよく知っている十八歳までの栞のことを思い出してみた。元気で、よく笑い、おっちょこちょいで、のんびりしているようでいていつもどこかで他人に気を配りすぎている。――そんな栞と、あの日真っ白なウェディングドレスを着て一人(一人?)バージンロードに立っていた女性とは、どうしても一致しないところがあるような気がした。この四年間は、彼女にとってどういう距離だったのだろう。この四年間、どういう道を歩みつづけて、彼女はあの日、その道のさらに先へと旅立っていったのだろう。 工場は当初、平べったい直方体の形をしていたらしい。工業団地などでよく見かける型の、ありふれた中規模工場だった。それが今では、空へと高くせり上がり、(二十七、八階はあるだろうか、)周囲を取り囲む白い布を通して、そのごつごつした六角柱の輪郭を五十メートル以上離れた僕にまで感じさせている。 この工場は、わが社が開発中の新製品であり、前任の先輩社員によると、機械を作り出す機械、工場を作り出す工場なのだと言う。通常、機械は人間が作り、使うものであって、わが社が通常扱っているような機械を作るための機械であっても、それを必要とし設計し作り出すのは結局のところ人間だ。しかし、わが社の新製品は、自ら考えて機械を作り出していく。自らが収集・蓄積したデータを基に、利益追求のために最も合理的な開発・生産を行っていくのだ。その過程に、人間は一切関わらない。それは、機械が機械を作っているというよりもむしろ、工場が細胞分裂しながら自律的に成長していく感じに近かった。だから、先輩社員たちはずっと、この新製品のことを〝工場〟と呼んできたし、入社早々その監視を任された僕も、慣習どおりにそう呼ぶことにしている。 工場は最終的に、資源の完全な自己供給と、産業廃棄物の完全な再利用とによって自足するはずだ。それは当初、わが社が工場に託した目標であったのだが、今ではむしろ、工場自体の意志のようになっている。しかし、当分は実現が難しいらしく、今朝からももう何度も、白い布のむこうからダンプカーが走り出して来たり鈍色のアームが伸びて来たりして、工場が己の成長のために必要な様々な材料を取り込んでいくのが見受けられた。どこから集めてきたのか、ダンプカーが鉄屑や空のプラスチック容器を満載にして、白い布のむこうに吸い込まれていく。ある時などは、先輩社員の車がアームに持ち去られたこともあったらしい。 今、工場は何を思ったのか、白い布の一部をこちらに向けて開けてある。その傷口のむこうには、複雑に入り組んだ鉄の柱や足場がかろうじて見えるだけで、それが何をするための部分なのか、僕には全くわからない。重く鎮まった金属製の暗闇の中で、黄色がかったライトの光が、怪物の一つ目のように輝いている。こちらへと何かのメッセージを送っているように、ライトは不規則な点滅を繰り返すのだが、その信号が何を意味するのか、これも僕には一向にわからない。ライトが消える。そしてまた点く。また消えてすぐ点く。またすぐに消えるだろう、という予想に反して、今度はずっとずっと点きつづける。そして不意に消える。青空を横切っていく鳥は見えない。 四月一日、――あの日、僕は自分が新しい人生を選び取ったと思っていた。大衆居酒屋の薄暗い電灯の下、膝と膝とがぶつかり合うくらいの間隔で胡坐をかきながら、引っきりなしに大笑いしては小皿を回し合っていた。あの時、僕は社会人としての自分を選び取り、栞とは別の道を自分の力で歩き始めたと思っていた。しかし、僕は今、僕とは無関係に動きつづける機械を眺めながら、完璧な青空の下で一人、あの日の栞のまなざしばかりを考えている。僕はあの場にいなかった。そして、これからもずっといない。僕のいる世界から栞は旅立ち、もう、追いつくことは決してできないだろう。 「おめでとう」 あの時言えなくて、これからも言えない言葉を抱えながら、僕はずっと、一人で生きていくしかないのかも知れない。 「おめでとう。おめでとう、ずっと」 声に出してそう呟いた時、空の遠くを、真っ白に透き通った鳥が自由に飛びまわるのが見えた。しかし、それは多分まぼろしだ。新入社員研修の時に教えられていたからだ。ここでは空は完璧で、青いタイルに隙間なく覆われている、と。それゆえ、景色の中に侵入してくるものなど、あるはずもない、と。しかし僕は、その時見えた白い羽撃きを、信じた。 僕は立ち上がった。作業着の尻が草の汁で汚れていて、そこから四、五枚、尻の下敷きになっていた桜の花びらがひらひらと落ちる。花びらからは、濃く、若い緑が滲み出している。僕一人分の身体の重みが、僕の骨格と足下の草原とにかかり、僕はやっと、ここも一つの道の上だと、――栞とは別々の、しかし、同じように一人で歩んでいくべき夢の途中なのだと、知った。 工場の白い布のむこうから、金属製のアームがぬうっと伸びて来て、駐車場に止めてあった僕の車を引っつかみ、持ち上げた。アームはそのまま白い布のむこうに消えた。しかし、僕はもはや絶望しなかった。騒々しく動きつづける巨大な塔の前で、僕はじっと立ちつづけ、いつまでも、見えない機械と向き合いつづけていた。 (二〇〇五年四月十六、十七日) |