2005年5月29日日曜日

焼け野原


 振り返れば、一面の夕暮れだった。景色は坂とともになだらかに下り、いつしか平らになって、ずっとむこうまで続いていた。山は取り囲むことなく点々と散らばるばかりで、こんもりと盛り上がった濃緑のふくらみを除いて、あとは、水彩絵の具をこぼしたみたいな民家の淡い広がりが、うすくうすく地面を覆い尽くそうとしている。屋根の途切れ目のむこうに背の低い雑草が見え隠れしていて、そこを横様に通り抜けていく川の流れが感じられた。けれど、川そのものは見ることはできなかった。これらはすべて遠く、儚いくらいに平らで、果てがない。透明な夕日に濡らされて、一面のオレンジになって暮れ残り、それでもじわじわと、自らの抱いた薄暗さを滲み出させて消えていた。それはまるで、焼け野原のようにしずかな、しずかな夕暮れだった。
 その光景の真ん中を、何回か曲がりくねりながらこちらへと続く、一本の道があった。田んぼの中に浮き橋のようにとどまるその細道の上、同級生の平山が、こちらに向かってゆっくりゆっくり歩いてきている。平山としては普通に歩いているだけなのだろうけど、ここから見ていると、たとえどれだけ待っても彼は到着しないように思えた。僕らはいまは、神社の石段の一番下の方に腰かけている。右隣では林が短い髪をワックスで整えていて、さらにその右隣、一段だけ上がった所には、長島が膝を抱えるみたいにして座っていた。長島は、何が楽しいのか、さっきからずっと人懐っこい笑みを浮かべつづけている。夕日はいつしか山の端に接していて、さらに一層その赤さを増していき、そう思う間にもう半分以上が山のむこう側に消え、ますます濡れて溶け出してしまう、留まることも忘れているかのように、もうそのわずかな辺縁が見えるばかりでそれも小さくなっていく、歪むみたいに沈んでいく、気がつけば青紫の夕闇が足元の道から立ち上っている。

 その時、僕らは中学生だった。それぞれに部活を終えて、丘の上にある学校から降りてくる途中、いつもそうやって神社の石段に腰かけていた。特に何をすることもなく、日が暮れきるまで、そこで三人でいた。林が時々、学校や教師についての不満を言う。長島はいつも愛想のいい顔をしていて、相槌を打ったり笑ったりしていた。ごくまれにおっとりした声で何かを言うけれど、その言葉は決まって遅れてやって来て、受け取り手もないまま夕闇の中に滞った。そんな時、僕はいつもほほ笑んでいたような気がするけど、その笑みもまた、長島に向けられたものではなかった。あてどなく、遠くの軒下で虫がしきりに舞っている。小さな虫だ。一つところで必死に旋回しながら、黄昏の中にどうにか自分を紛れ込ませていく。
 長島が学校でいじめられていることは、僕も知っていた。けれど、神社の石段に座っている間、彼は人のいい笑顔を間断なく浮かべるばかりだから、僕は長島に何を話しかけることもできなかった。林は林で、長島のことには無関心なように、いつもぼんやり前ばかりを眺めていた。林の学生カバンはぺしゃんこで、気がつけば地面に倒れている。どうかすると、そのカバンが僕の太ももに寄りかかっている時などがあった。林の髪は、前の年の秋ごろ急に茶色くなって、それからその年の春先にかけて肩に触れるくらいまでに伸びたけど、いつしか短くなって、色もずいぶん黒くなっていた。何があったのかは聞かなかった。今も、知らない。

 ――もうすぐ、夏休みだな。
 ――そうだね。今年も、長谷川さんと花火見るの?
 ――長谷川? 二千年前に死んだよ。

 僕らの頭上には、石でできた大きな鳥居があるはずで、わざわざ首をぐっと傾けて振り仰がなくても、僕らはそのことを知っていた。僕らの後ろには、様々な言い伝えのある深い森が真っ暗に繁り、その中に一筋、いやに仄白い石段が急な斜面を登っている。立ち上がって振り返れば、その様子はよく見て取れるだろう。けれど、僕らはじっと腰かけたままで、決して後ろを振り返ろうとはしなかった。前を向いたままの僕らの背中から、石段がまっすぐに伸びていき、眩暈のするほど遠くまで吸い込まれていく。そんな気がした。目をつぶれば、石段のむこうに平らな砂利道が浮かび、そこにゆらゆらとまぶしい縁日が立ち並んでいて、どこから風が吹いているのだろう、店先の風車がしきりに回っていた。

 ――京都の大文字焼きって知ってる?
 ――ああ、五山の送り火のことだろ。
 ――うん、それそれ。林くん、見たことある?
 ――いいや、ない。俺は、放火の方がいいよ。
 ――……あ。……船が、出ていく。

 長島が指差した辺りには、いつもと同じ夕闇があるばかりで、僕はまた、あてどなくほほ笑んでいる自分に気がついた。林は自分の髪から指を離さなかった。長島が指差した辺りに気のないまなざしを向けながら、短い髪を、右手の人差し指と親指とでしつこく捻りつづけている。同級生の平山は、いつまでたってもここには着かなくて、やがて夜闇の中に見えなくなった。

 ――誰もいないね。
 ――ああ、誰もいない。
 ――何も、残ってないね。
 ――全部燃えちまったからな。
 ――林くん、どう思う? 僕らってさ、……うそ、なのかな。
 ――知るかよ。
 ――そうだよね。わかるはずもない、か。
 ――当たり前だろ。わかってたまるか。

 ――……そんなこと言ってないで、たまには笑えよ。本気で笑えたら、たぶんそれだけでも本当になれるだろう? な? 俺たちだって。俺たちだってさ。

 誰もいなくなった神社の石段を、駆け上っていくいくつもの浴衣姿があった。しなやかに伸び縮みする足首と、薄布一枚のむこうに息づく背中。真っ暗な石段に足音を響かせて、何人も何人も僕の脇を駆け抜けていった。すべての後ろ姿が森のむこうに吸い込まれていき、やがて足音も聞こえなくなった。途端、一発の花火が夜空に炸裂して、辺りを一瞬明るく照らした。しかし、そう思ったときにはすでに光は消えていて、後はただもう、虫の声さえ聞こえない宵闇が広がるばかりだった。

 あのまま、闇をじっと見つめつづけていればよかったのかもしれない。けれど、僕は振り返ってしまった。振り返ると、一面の夕暮れだった。林も長島もここにはいなくて、僕一人だけ、どことも知らない丘の中腹に立っている。
 このうそみたいな人生も、今年で四十年を過ぎた。生まれた時から誰かの余生で、誰かの死後みたいなものだったけど、特に、あの焼け野原を見てしまってからだろうか、ちょうど息を吸い込んだまま吐くのを忘れてしまったみたいに、ずっとこの丘の中腹に引っかかったままになっている。いい加減、立ち上がらなければならない。歩き出さなければならない。そんなことは知っているけれど、そのために腰かけるべき石段がここにはないのだ。遠くでは、水彩絵の具をこぼしたみたいな民家の淡い広がりが、うすくうすく地面を覆い尽くそうとしている。その中の一軒に、僕の帰るべき家というのもきちんと用意されていて、そのことがまた、僕をあてどなくほほ笑ませた。
 長島は中学卒業を待たずに自殺した。林は十七の時に連続殺傷事件を起こした。「荒れる十七歳」なんてマスコミに呼ばれながら、僕は潜める息も吐き出す息もないままに生きつづけてきた。二十五年がたった。その間に何度も、ふと思い立って本気で笑おうとしたけど、いつだって頬をぎこちなく引きつらせるのが精一杯だった。そのぎこちなさが暮れ残り、そればかりが形を伴って、僕だった。どこかに凝りを積もらせながら、僕は昨日から引き継がれ、明日へと宛てもなく続いていった。
 二十五年がたった。やがて百年がたつだろう。焼け野原はいくじなしの微笑をたたえたまま、本当に笑うことも、ましてやもう一度焼き払われることも拒みつづけるだろう。いつまでたっても同じ夕暮れだ。どれだけ待っても平山は到着せず、僕らはすでにない伝統を幻の家に見立てて引きこもり、引きこもりながら果てもなく広がって、長すぎる過呼吸の死後を生きていく。

   (二〇〇五年五月二十八、二十九日)