これは、某小説サイトにおいて、ある方から「空走距離」に対してのご感想を頂いた折に、そのご感想に対して書いた文章の一部です。ですから、小説のことについて書いてありますが、これはきっと詩にも関わりがあるだろうなあ、というか、この考え方自体、詩を読むことを通して身につけてきたものなので、当然詩にも当てはまるだろう、と思って、あえてこちらにも投稿させていただきます。ただし、多少変えた部分があります。 (前略) ただ、言い訳がましくなりますが、「難解」という言葉について、私の考えを述べさせてください。私にとって、小説の感想で「難解」というものはあまり存在しません。それゆえ、それが私の目標であることもありません。私が抱く、小説の感想としては、「難解」ではなく「読みにくい」や「疲れる」(これらは、私の中でそれほど否定的な感想ではありません)、それから、「おそらく作者は日本語がわかっていない」や「書いている人の自慰行為」(これらの感想は、歴然と否定的です)などがあります。 さて。なぜ、「難解」と感じないか、というと、私が、一般的な意味で理解しようとしていないからです。難解とは、「解き難い」ということ、つまりこんがらがっている毛玉が一本の糸にほどけない、ということです。その解(ほど)かれた一本の糸とは、皆さんがテーマとかメッセージとか意味とかいうものでしょう。でも、それを理解してなんだと言うのでしょう。そこが私には逆にわかりません。 たとえば、この小説[註:「空走距離」のこと]が持ちうるメッセージとしては、「本当を自分を探そう」、とか、「僕らはみんな生きている」とかになるでしょうか(私としては、そのようなことを言いたいわけではありませんが)。しかし、そんなことなら、小説なんか書かなくても、誰でも言えます。つまり、それらを理解させることが小説の目的ではない、と私は思うのです。 たしかにある時代、紙の上での一つの実験のようにして、人間の真実の姿を描き出す、ということは小説の目的でありました。しかし、それは人間についての一意見を言うためのものではなく、むしろ、そのような意見などを無効化する人間の不可思議さなどを明らかにするためではなかったか。作者がどのように人間や世界を描くか、というのは確かに興味の尽きない所ですが、それは決して作者の伝えたい意見などではなく、そのように人間を見てしまうという作者のあり方、あるいはビョーキであって、小説とはそのような作者のビョーキまで含めて、人間の解き難い不思議さを抱え込んだものではなかったか。解き難さを抱え、同時にその解き難さに囲まれながら、その中で自分の行く道を探していくものではなかったか。そう思うのです。 しかし、学校教育では、そこを全部意味と表現に還元してしまう。作者のある種のビョーキや、作者が小説という修行を通して手繰り寄せた彼自身の道を、作者が伝えようとした意味やメッセージに読み替えることで、本来は人間や世界の解き難さを抱え込んでいるものであり、且つ、そこでの苦闘でもあるはずの小説を、「言いたい意見を適切に伝えるための表現」に変えてしまう。つまり、お決まりのあの台詞です。「この小説で、作者が言おうとしたことは何ですか」。 この台詞の一番怖い(と僕が思う)所は、小説が抱え込む本来的な難解さ、さらには小説の危険さでもあり、おそらくは真摯な作者がそれに追い立てられ、またそれを追い立ててもいる、「生きること」の危険さを、すべて無害化してしまうことです。たとえば、「明日のない今日」[註:「空走距離」の前に書いた、非現実的で迷宮的な小説。舞台は冬の北海道]も、「話者の脳内ドラマ」として理解すると、とてもよくわかりやすい。あるいは、「慣れない土地に行って迷っている人の頭の中をのぞくと、たしかにこんな風になっているのかもね」なんていう理解もありえます。そう言う時、その読者さんにとって、「脳内ドラマ」の外側の世界は今までと変わりなく安全でありえるわけです。僕たちの生きている(とされている)世界はいつもどおりで、ただ、その中で変な人が変なことを考えているだけなのだ、っていう形で、世界の安定は守られる。あるいは、変な世界は変な世界だけど、それはまともな作者がまともな何かを表現しようとして作った箱庭にすぎなくて、僕らはその箱庭から、そこで表現されている作者の心情や意見を汲み取らなければならない、ということになります。そして、その心情や意見を、依然安定したままの「僕らの世界」の中で役立てていこう、と。こうして、作品の世界は変な世界あるいは箱庭として隔離され、「僕らの世界」、正常な世界はその外で安定をより強固にする。 で、僕自身の考えとしては、小説はむしろ、そのような「僕らの世界」に動揺を加えるものではないのか、と思うわけです。だからこそ、僕は、箱庭の解読者として小説に向き合うのではなく、その庭の中、語りの中に迷い込みます。たとえば壁がいきなりプリンになったりしても、そこから何かのメッセージを読み取ろうとしたり、ましてや「狂人の内面を表現したもの」なんて思ったりしません。「うお、プリンになった!」と真剣に驚くだけです。さらに、壁がプリンになったと言うのにそれを話者がちっとも驚いていないとしたら、そのような世界に生きている人間の不思議を思い、壁がプリンにならないことを当然と思っている自分の世界を問い直し、さらには壁がプリンになるような世界観の根底にある、「その人のリズム」を感じ取ろうとするでしょう。 (ただし、そのような「壁がプリン」みたいな書き方を、「これって前衛っぽいよね」と言った感じで使用している作品があれば、私はそういうのを「自慰」として最も嫌悪します。そう書かざるをえないものとして書かれてあるかは、全体を読めば意外とわかるものです。形だけ真似して芸術家面する者どもには、書かなければ死んでしまう、立ち止まれば死んでしまう、という不安や、書き続けていくことが負わせてくる息苦しさと追放、そして自分のいる世界に恐れ戦きながらも魅せられ、その世界の奥の奥まで覗き込みたい、もっともっと深くまで(狭くて空気が薄いあまりに、息が出来なくなるほどまで)潜っていきたい、と思ってしまうこのわけのわからない狂気は、一生理解できないままでしょう) 言葉に書かれたことは、それ自身一つの出来事であり、一つの事件であります。そして、事件と言うものが往々にして、幾層にも重なった様々な遺恨や動機や決断や偶然めかした規則性を抱え込んでいるように、(たとえそれが嘘やフィクションであっても)そこには何らかの真実(真理ではなく)が宿る(たとえば、嘘をつくにもその人なりのつきようがありますし、嘘をつく理由も単純なものではない。嘘は大体、複雑な絡まりあいと奪い合いによって、というかもっと簡単にいってある種の動き続ける駆け引き(あるいは綱引き)の中で、ある一時の立場からつかれるものです。そして、表面に出た嘘の下には、その止むことのない絡まりあい・駆け引きの全体が宿っている)。 だから、私は書かれた言葉をまず信じます。それは、その言葉が客観的に見て本当である、と信じることではなく、その言葉がたしかに書かれて有る、ということをまずは肯定することです。簡単に言えば、とりあえずその言葉どおりにイメージしてみる、受け取ってみる。言葉からすぐに意味やメッセージを受け取ろうとするのではなく、様々な地層を抱えて投げられた言葉を、その存在感や存在の重さを、まず全体として受け取ってみる(もちろん、それは膨大すぎてとても抱えきれるものではありませんが)。 だからこそ、私の感想には「難解」というものはないのです。解き難いまんま受け取るわけですから。ただし、これはすなわち自分の世界を崩されてしまうことにも繋がるわけで、相当しんどい作業でもあるのですが。 (後略) 初出:小説投稿HP Blue Campus |