(1)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post.html (2)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post_13.html (3)http://awono-katei.blogspot.com/2005/02/blog-post_5190.html 地吹雪が過ぎていった。 地吹雪が過ぎていった。 また地吹雪が過ぎていった。 カーテンを閉め切った部屋の中で、僕らは映画を眺めつづけていた。スクリーンの中に突然走りこんできた自動車がぶつかって、あっけなく大破する。また大破する。またまた大破する。 僕らは席について、その光景をいつまでも眺めつづけた。映画が終わった後、教員が前に立って、何かを話し始めた。席についたまま、僕らはその言葉を書き取っていく。モーターの音が鳴って自動式のカーテンが開くと、僕らの席が急に明るくなった。僕らはすでに立ち上がっていた。今日の学科教習は終わりだった。 階段を降り、ロビーの前を通ってドアを開け、また階段を降りて路上に出て行く。二時過ぎだけあって、まだ日が高い。空は今日も、薄墨を流したような淡さを湛えていて、僕はどこか遠くでかなしくなっている自分に気づく。そしてそのまま歩きつづける。 「運転者が危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまでの間に、車が走る距離を空走距離と言います」 「空走距離は、車の速度に比例します」 さっきの授業中、テキストの中で見つけた言葉が、いつまでたっても頭を離れていかない。「危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまで」の隙間を思うと、そこに何か、真っ白な空白が口を開けているように思えてくるのだ。走るために使われるのではなく、止まるために使われるのでもない、距離。運転者の無意識的な運転も、止まろうとする意志も、ともに働かないゆったりとした空間。 その空白には、「何もない」さえもないのだろう。そして、何もないことで、それはたしかにありつづける。「危険を察知してから、ブレーキが利き始めるまで」のあい間に、いつまでも口を開いている。引き込まれていくような恐怖を覚え、僕は身震いした。僕は歩きつづけていた。空は青く、陽は穏やかだった。今は、もう五月だっただろうか。 車の速度をどこまでも上げると、空走距離はどうなるのだろうか。それが臨界点以上に引き伸ばされることで、車が空白地帯を突き抜ける、なんてことは起こらないのだろうか。そんな抽象的なことを考えていると、僕の向かいから、一人の少女が歩いてきていた。少女に気づいた時には、さっきまでの物思いが消えていた。抽象的な考えなんて、結局その程度のものでしかない。生身の人間の前では。 少女のことは、どこかで見たことがある気がした。しかし、それが誰であったかいまいち思い出せない。近づくにつれて、少女があの屋上にいる四人のうちの誰かのように見えてくる。しかし、彼女はむしろ、四人全員に似ていた。四人全員に似ていて、どの一人とも違っている。 僕は少女とすれ違う。その顔をよく見たい、と思っているのに、僕はそのまま歩みをゆるめない。そのまま僕らはすれ違う。すれ違った後も、振り返ることができない。そして僕が、そのまま歩きつづけている。 その時、僕は自分がどこにもいないことを、今さらのように思い出した。今歩いているのは僕ではないのだ。僕はずっと前から行方知れずだった。今見えている景色のどこにも僕はいない。僕はただ、どこか遠いところから、これらの景色をじっと眺めつづけている。 むしろ、さっきすれ違った少女の方が、僕だったのかもしれない。僕は(というよりも、わたしは、だろうか。もうどうでもいい)、車の教習所から出てきた男の人をちらりと見ながら、歩きつづけた。わたしが向かっている方には、おしゃれなイタリアンレストランが見えた。そのむこうに結婚式場。そして、それらの間に地下鉄の駅がある。 男の人とすれ違う時、わたしは少し、変な気がした。けれど、それがどうしてだったかわからない。男の人が視界から消えた後、わたしは不意に、そこに広がっている空に気づいた。空は青くて、平らに伸びていた。狭苦しく集まった建物のむこうで、空は仄白くなってかすみ、曖昧に消えていた。そこにいってみたい、と思った。何もない空の、本当に何もなくなる場所に、わたしは行ってみたい。 いつからか、わたしはこうして歩きつづけていた。初めて歩いた日のことは覚えていないけど、その日からずっと、わたしは歩きつづけていた。ふとそんなことに気がついて、歩きながら大きく深呼吸した。気持ちよく、胸の中に涼しさが広がっていく。身体が空っぽになって、遠くの風の音が聞こえてくる。ここは、一体どこなんだろう? わたしにはわからない。 気がつけば誰かが、わたしも聞いたことのある歌を歌っていた。歌いながら、春の東京を歩いていく誰か。それは、わたしなのかもしれなかった。 地吹雪が吹き荒れている。さっきからずっと、地吹雪が吹き荒れている。その中を僕は、歩きつづけている。右肩がぱっくりと切れていて、おそらく大量に血が垂れているのだろう。けれど、何と言うか、その腕が他人の腕のようだ。痛みも今は、どくどくと脈打つ大きな肉塊として、客観的に感じられるばかりだった。 僕は何かを探していた。何を探しているのかわからないまま、僕は地吹雪の中を歩きつづけていた。逆巻く雪が、僕を飲み込み、木々と一緒に激しくかき回した。これまで何度も自分の輪郭を忘れそうになった。しかし、「これまで何度も」とは、一体どういうことなのか。わからない。すでにして、時間も回数も関係のない世界に僕(誰?)はいた。ここにあるのは、途方もなくつづいていく風と雪、その狂ったような乱舞だけだった。 屋上には、もう誰もいなくなっていた。四人の少女が何と言って別れたのか、僕にはわからなかった。そこにはもはや、何もない。セメントで作られた平らな地面の上に、風がどこかから吹き込んできて、すぐに消えてしまう。揺れつづけるカーテンも、四方を取り囲む柵もない。音もなく飽和した春の陽の中で。眼下に広がる低い屋根だけが、空しく午後を囁き合っているのが聞こえる。 地吹雪が吹き荒れている。僕は雪に足を取られて、急な坂を転がり落ちた。気がつくと、僕が大の字になって伸びている。厚い雪に顔まで覆われて、もう立ち上がる気力もなくなっていた。何度も何度もやってくる風の音が、耳元で聞こえた。そして、それも段々遠ざかっていく。…… 唐突に、遠くで雪が落ちる音がした。ドドド……という轟音が尾を引いてつづく。そしていつしか静かになっている。 僕は目を開けた。目の前を雪が覆っていて、真っ白だった。それを払おうにも、雪の下の右手が動かない。僕は、左手を力いっぱい押し上げた。何回か繰り返すと、雪が崩れ始め、七回目か八回目で腕が雪の外に出た。その手で顔の上の雪を払う。すると、夜空が見え始める。雪を全部払っても、まだ足りなかった。横たわった僕の視界を超えて、宙いっぱいに、満天の星空が懸っている。 空気が澄んでいて、蒼く燃える星の炎まで見えそうだった。冷え切った闇が、つややかに濡れていた。僕は、呼吸することも忘れて、しばらく夜空に見とれていた。いつの間にか、宙の真ん中で、見たこともない星が金色に輝いている。それは、環のような形をしていて、指輪みたいだった。いくつもの方向に光を放ちながら、その星はくるくる回転しつづけているように見えた。 百万年つづいてきた指輪だ、と僕は思った。前史の昔から、僕らの営みを見つめ、刻みつけたきた指輪だ、と僕は思った。どこかから、聞いたことのある歌が聞こえ始めていた。ギター、ベース、ドラム、そしてある限りの歌声が、裸の大地にどこまでも挑みかかっていくような逞しいビートを刻む。僕らの命は、そのビートの中にあるのだ。澄み切った夜空の中空で、百万年の指輪に指を通す、なめらかで真っ白なひとつの手が見えた。 僕は泣いていた。その僕の上を、いくつもいくつも地吹雪が過ぎていった。歌はずっと聞こえつづけていた。そして、春になった。 屋上には誰もいなかった。雪が水に変わり、雫となって落ちていく音が聞こえている。 屋上には誰もいなかった。陽が穏やかに昇り始め、子どもたちはいつしか大人になっていた。 屋上には誰もいない。平らなアスファルトを割って、いつしか緑の雑草が顔をのぞかせていた。風が吹くたびに、その草が他愛なく、揺れる。 屋上には誰もいない。いや、違う。そこには、四人の女性がいる。女性たちは学生マンションの屋上から、眼下に広がる大らかな街並みを見つめている。こんもりした緑の木々と、不自然なくらいに幅の広い大通り。通り過ぎていく何台もの自動車。帰ってきた札幌の街並みを、女性たちは新鮮な気持ちで眺めている。 「じゃあ、そろそろ帰るわ」 背の低い女性がそう言って、他の三人がしずかにうなづく。背の低い女性は軽く目を伏せ、次の瞬間、前を向いて力強く歩みだしていった。 三人は、その背中を見つめている。すると不意に、女性は振り返った。四人はまったく違う顔立ちをしていて、互いに別人だった。別々の視線が、あたたかくぶつかる。 「ありがとう」 誰からともなく、そう言った。全員が、輝くばかりの笑顔になっていた。そして、女性は再び前を向いた。さっきよりも穏やかな足取りで、屋上から降りていく。二〇〇五年の、四月だった。 僕の部屋からは、やがてカーテンが外されるだろう。開けたままだった窓は閉められ、CDケースは片付けられるだろう。原稿用紙は白いままで、そこに何度も、古い歌、新しい歌がやってくるだろう。すべての歌は、やがて消える。消えながらそれは、その場所でいつまでも、鳴り響きつづけている。 僕の部屋は、誰のものでもない部屋に戻るのだ。そこに誰かがやってきて、そこでまた、生きていく。 「ありがとう」 「ありがとう」 流れつづける水音が、遠くから、ずっと、聞こえつづけていた。 「ありがとう」 「題名だけのスレ3」に、自分で書き込んだタイトルより。 全4回、これでおしまいです。ちなみに、同じタイトルで 最果タヒさんが書いて下さった詩はhttp://www.eonet.ne.jp/~luara/writting/006/0001.htmlにあります。必見。 |