2005年2月13日日曜日

小説 「空走距離」 (3)


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 来た時と同じで、窓の外には森しか見えなかった。路肩に積み上げられた雪が山のようだ。そのむこうには、葉のない木々が白骨のように浮かび上がっている。雪の山はなだらかに森の中へと下っていて、その先に人家は一つも見えない。フロントガラスには、さっきからずっと、細かい粉雪が狂ったようにぶつかっている。
 「氷濤見に来たの?」
 タクシーの運転手が、素っ気ない調子で僕に聞いた。
 「はい、それで終バスを逃してしまいまして」
 「へえ、大変だねえ」
 それきり黙ってしまう。車の中はカタカタ揺れつづけている。スピードメーターは六十キロを指したまま、動かない。
 「土日には花火もありますよね。だから、まだ大丈夫だと思ったんですよ」
 「ああ、花火っても、あの花火はすぐ終わっちゃうからねえ」
 一台の対向車とすれ違った。通り過ぎていくヘッドライトが、まぶしい。一瞬目をつむり、その目を開く。その後はもう、前を行く車の赤いテールランプが、ずっと遠くに見えるだけだった。
 「あ、……あれ、何ですか。道の上で光ってる、下向きの矢印。あの、オレンジ色のやつですけど」
 「ああ、これはねえ、道路の幅を知らしてくれるの。雪が積もったら、線が見えないでしょ」
 「なるほど。そうですね、実際見えてないですもんね」
 「もしかしてお客さん、道内の人じゃないの?」
 最終バスを乗り過ごしたと言うのに、それでも道民と間違われていたことがうれしい。そして何だかこそばゆい。僕は、「ええ、東京から来ました」と正直に答えた。
 その後何を話したのか、よく覚えていない。僕は、道路の上に規則正しく並び、点々と下を指しつづけている矢印を見ていた。路側帯の位置を知らすものだとわかっても、やはりそれは、別の何かを指し示しているように思えた。
 たとえば、路肩に連なる雪の山の下には、すでに失われた誰かの記憶が埋もれているのかもしれない。そんなことを考えた。もはや誰にも思い出されない思い出を、オレンジの光だけを頼りに掘り起こしている人。そんな姿が、はっきり見えた気がした。探しているものが何かもわからず、凍えた指先はそれでも、積もった雪を掻き分けつづけるのだろうか。
 「!」
 僕は、とっさに額を窓に押しつけた。視線をぐっと後ろに送ると、そこに一瞬小さな背中が浮かび、すぐに見えなくなった。道路の脇を、誰かが歩いていったのだ。こんな灯りもない山の中に、一体誰が歩んでいるというのか。僕は激しく動転していた。しかもそれは、まだ年端もいかない少女たちのように見えた。小さすぎる身体に不釣合いなギターケースを背負い、少女たちは一列になって、支笏湖の方へと歩んでいった。
 「千歳市内から歩いてこれるんですか?」
 僕はそう言いながら前を向いた……はずだった。僕らの前には、大きな雪の壁があった。「あっ!」という声を僕が上げた気がしたが、実際はそんな時間もなかっただろう。「雪の壁がある」とわかるより先に、僕らは森の暗闇の中に弾き出されていた。言葉は遅れてやってきた。そしていつまでたっても、それは僕に追いつかない。

 十月から降り始めた雪は、やがて厚く積もり、人々を家の中に閉じ込める。真冬ともなると、屋根からは長く長くつららが垂れ下がる。降った雪はいつまでたっても融けていかない。こうなるともう、雪は雨が変わったものではなく、無尽蔵に置き忘れられていく膨大な物体である。空は鈍色の雲に覆われつづける。朝が来ると、家から人々が出てきて、雪かきをする。しばしば吹雪く。ひどい時には、無理をした人が行き倒れになって、死ぬ。
 しかし、春が来ると、雪は不意に水になって滴り始める。ぽたり、ぽたり、ぽたり、ぽたり。昨日までの物体が水に変わって落ちていき、子どもたちがチャンバラに使って遊んでいたつららも、軒先から嘘みたいになくなってしまう。あたたかくなって、遠くに行ってしまったのだろうか、ついこの間まで庭先で遊んでいた子どもたちが、今はどこにもいない。
 少女たちは、いつの間にか大きく成長していた。学生マンションの屋上に立ち、四人は後ろを振り返っていた。
 「ない……」
 髪の短い少女が、ぽっそりとそう呟く。屋上の四方を囲んでいたはずの鉄柵が、いつの間にか全てなくなっていた。頭上を横切ってはるばるとつづいていく、圧倒的な空だけが広がっている。
 真っ直ぐな髪をした少女は、何かを納得したようだった。背の低い少女に視線を送ると、彼女も同じような表情をしていて、視線で応えた。背の高い少女は、その目くばせを見て、ほほ笑みながら小さく目を伏せた。背の低い少女が彼女の肩を叩く。背の高い少女がやわらかな笑みでそれに応える。髪の短い少女が、「ふは」と少しだけ笑って、楽しそうな目で三人の方を見た。
 僕の部屋には誰もいなかった。僕もいない僕の部屋を、いなくなった僕が眺めていて、窓は開けられたままで風が時折吹き込んでくる。そしてそのままどこかに消えてしまう。膨らんだカーテンはたちまち元の位置に戻り、しかし、かすかに揺れつづけている。部屋では雪が降りつづいている。




「題名だけのスレ3」に、自分で書き込んだタイトルより。
全3~4回を予定しています。ちなみに、同じタイトルで
最果タヒさんが書いて下さった詩は、http://www.eonet.ne.jp/~luara/writting/006/0001.htmlにあります。必見。