「何もない。何もない。何もない。」とつぶやいて目を開くと、うそを見たような気分になった。真っ白な天井があった。丸い目の端の方に、スチールラックが映り込んでいた。もう一方の端には、濃紺のビニールバック。紐で閉じられるようになった口の辺りが白くて、そこからショッキングピンクの丸い紐が出ていた。去年の夏に、ある女の子バンドのツアーに行った時に買ったのだ。一年間という時間が、白い部屋の中にやってきて、滞った。ちょうど、一日五回目の中に入れる軟膏みたいで、その軟膏っていうのは下まぶたをめくって確認すると、いつでも精子みたいにどろっとしてるのだ。僕は起き上がった。閉じたままの左目が痛んで、時計を見ると午後九時だった。 片目で見ると、世界というのは平坦になる。そして端のほうだけ丸くなる。そんな発見もまた平坦で、僕はかるくバランスを崩しかけた。自転車に乗るのはやはり怖かった。身体と空間とを忘れていて、怖さを感じないから。たとえば、今夜みたいな夜道の途中、歩いている人とすれ違う時とかに。 書店に着くと、僕は店内をさっと見渡した。いろんな人がいた。いろんな洋服があった。セルリアンブルーのノースリーヴのシャツに、黄色のスカート。肌が白くて髪が黒い女だった。黒いTシャツにジーンズにサンダル。眉が濃く顔も浅黒いやせ型の男だった。店内は蛍光灯のせいで白かった。すぐに音楽雑誌の棚にむかった。 通路には何人か人が立っていて、そこを足早に通り抜けて棚の前に立つ。正面から棚の方を向こうと、足を使ってターンすると、僕は途方にくれてしまった。たくさんの雑誌があったのだ。首を振ってぐるっと見渡すと、たちまち面倒くさくなってしまった。 例の女の子バンドの載っている雑誌を二冊重ねてレジまで運んだ。一方のレジには客がいて、もう一方のレジでは若い女性の店員が書き物をしていた。そちらの方を向き直った時に一度ぐらっと来た。八九〇円だった。千円出しておつりを貰った。 店から出る時、話題の本のコーナーを通り過ぎた。その時僕は顔を棚の方(僕の身体の左側だった)に向けた。一冊の本が目に入った。小説だった。手に取ってページをめくると、「博士はそれを愛していた」という言葉が書いてあった。僕は鼻で笑って、すぐに本を棚に戻した。出口の方に向き直る時にまた一度ぐらっと来て、僕は口の中で「ファック」とうそぶいた。 店の外に出ると、夜は相変わらず暗かった。自転車を探した。街灯はぼんやりしたオレンジ色で、見当違いの辺りを照らしていた。左右に首をぐるっと回し、人がいないのを確認してから、道に踏み出していく。自転車の鍵を外そうとうつむいた拍子にまた左目が痛んで、僕は「愛してる。」という言葉について考えた。「愛してる。愛してる。愛してる。」と三回つぶやくと、それはうそになるらしい。それならば、「愛してる。」はとてもかわいそうな言葉だ。そう思った。自転車を用心深くこぎだすと、僕は途端にさびしくなってしまった。 平坦な交差点を横断する最中に、向こうから来た自転車二台とすれ違ってバランスを崩した。けれど、足はつかなかった。交差点を今度は横に渡るために、信号待ちをする。白いノースリーブに黒いストレッチパンツをはいた女性が立っていた。僕は書店のことを思い出し、本の中の「博士」を嫌悪した。京都の夜空は黒くて、交差点は涼しかった。誰か、「愛してる。」という言葉を愛してあげられるだろうか。「愛してる。」という言葉さえ使わず、対象の「愛してる。」も、うそにしてしまわないまま。 信号が青になった。自転車をこぎだすと、隣にいた女性がダッシュしてどんどん僕を引き離していった。僕はこれから家に帰って、片目で雑誌を読むだろう。なんとか愛そうとしていたのかもしれなかった。 |